日本を民主主義だと思っている人はどれくらいいるのだろうか・・・・


日本の権力構造は決して民主主義ではない。それはイメージではなくデータでそうなるのである。もう何度も書いたと思うが改めて書くと、政権を握る自民党の支持者は、投票率60%で得票数が50%とすると、全有権者の約30%の得票数ということになる。


そのうち、心底自民党支持者というのは恐らく50%以下だろう。つまり、全有権者の10~20%の人たちが、政権を支持してこの国を動かしていることになるのである。国民に不満が募るのは当然である。


ただ、そうした構図が成り立つためには、そうしむける教育が欠かせないのである。道徳教育によるマインドコントロールも一つの策略であるが今一つ必要なのは、教科による成績を国民に意識付けすることである。


例えば、数学でも理科でも国語でも何でも良いのだが、その教科を設定し教えることで必然的に優劣が出てくる。点数を取る人が優秀だという発想が根付いてくるのである。それは、そうした教科に限らず何かの指標を出すと全てにおいて人はランク付けされることになる。


そして、多くの場合それはヒエラルキーを構成する。簡単に言えばピラミッド型の分布となるわけである。厳密に言えば、ピラミッドを上下二つにくっつけたような構造になるのだろう。かくして人の能力に格差が出ることを強烈に植えつけられるのである。


しかし、学校の勉強と実社会での力とはそれほど因果関係がないことを知る人も少なくないだろう。そうはいいながら、個人の能力に関してレッテルを貼られた国民は、主権者であると言う立場を堅持することが出来ないのである。


政府を司る官僚や政治家は大抵が少なくとも学校の成績は優秀な人たちばかりである。そういう人たちと一般国民が議論をすると、大抵難しい政治の問題を持ち出し、国民は一網打尽に粉砕させられるのである。従って、国民が胸を張っていえるのは感情論だけになる。


国民が主権者として、また言論の自由を謳歌できるのは、感情的な論理によって政府や政治家をねじ伏せるしか術がないのである。術がない人ほど感情に走るのは必然であると思うのだが、それは政治家や官僚にとって自分たちのステイタスを保つ大きな力となるのも事実である。


かくして、国民には無力感と感情をぶちまけた時の開放感のバランスによって主権者としての地位を失うことになるのである。こうした力が民主主義を根底から築かせないものとなり、政治や行政は、そこで働く人たちのために存在する機関となるのである。


人の構成でいえば、能力のある人よりもない人の方が圧倒的な数を占める。黙って民主主義を通せば、国家は無秩序になるという危機感が政府にあり、その危機感から育まれた教育によって全ての国民にも浸透しているのである。


衆愚政治という言葉を知っている人も少なくないだろうが、大衆は愚かでありそこに権力を与えるととんでもない世の中になるという発想が未だに根強いのである。しかし、それを断ち切らなければ真の民主主義を構築することは出来ないのである。


私たち主権者たる国民は能力を決して問われる事はない。しかし、責任は問われるのである。優秀だと思われていた人たちに任せておいてこのような現状がある。この国が少なくとも終戦後から良くなったのか悪くなったのかは個々人の判断に任せるしかないが、少なくとも人間本来が持つメンタリティは壊されていると私は思う。


人が生きる社会において経済は重要だが全てではない。人が人として満足する生き方が出来るかどうかが最も重要ではないのだろうか。そういう意味において、全ての国民に主権が与えられている。優秀な人たちが築いたとんでもない社会を見ると、我々一般国民は勇気が出るはずである。


今時代は、国民一人一人に自らの人生を問うており、その答えの出し方で人類の未来が決まるといっても過言ではないだろう。主権は国民にある。主権者とは言うなれば国家における君主である。君主が国を見離せば国家がどうなるかは歴史を見れば誰でも分かることだと思う。