自民党は、事あるごとに責任政党を口にする。
麻生さんは、その責任において解散総選挙を延期するらしい。経済的な困難を乗り越える為に、政治空白を作らないのが政治の責任であるという論理である。一見すると正論であるようだが、野党が言うように、政権は国民の支持により成り立たなければならない。
国民の望む政権が政策を行なってこそ初めて意味を持つ。そうすることで国民にも責任があることを意味するのである。しかし、支持を得ない政権とは、いわば独裁政権と同じであるとは言えないだろうか。
責任という言葉は、いかようにも変異する自由で使い勝手のある言葉である。恐らく、日本が戦争をしたのも、この責任という言葉のお陰である。
以前書いた、自ら学び考え行動する教育のところでも、同じ理念の下行なう教育が全く逆のやり方になるという結果が見えた。それを為しえたのは紛れもなく「責任」という言葉である。
我々は、この責任という言葉を使う場合は慎重になる必要があると私は思う。個人の責任は個人で担えるが、社会の責任は個人では担えないのである。社会とは個人の集合体であり、突き詰めていけば、全ては個人個人が担っていかなければならない。
国を動かす政治については、この責任の所在や意味を常に考えながら行動することが求められるのではないかと思う。軽々しく、責任という言葉を使う人には注意しなければならないと私は思う。