またしても閣僚の問題発言が話題になっている。麻生内閣の終焉を暗示しているような気がする。いや、自民党の終焉と言っても良いかもしれない。中山国交相 問題発言で引責、辞任 官房長官が臨時代理
内容は日教祖 批判と、ごね得発言のようだが、国交相が教育問題を何故発言したのか、恐らく、言いたかったのは、ごねるような教育を施してきた責任を日教組に転嫁したかったのであろう。しかし、勘違いしてはいけない。教育行政を担っているのは日教組ではなく文部科学省である。
日教組が道徳教育を反対していたとは、私にとって驚きである。前にも書いたように、戦後廃止された道徳教育を復活させたのは当時の文部省である。日教組の道徳教育への反対は、今のホームページを見ても分かるのだが、何かにつけて政府の方針に反対するという姿勢の一貫であるように思う。
何故なら、ホームページを見ると分かるが、今現在、道徳教育反対を謳っていない。本質的に反対なら、今でも大きく掲げていなくてはいけないと私は思うのである。
今回の政治問題を、「道徳教育をやめさせよう」というカテゴリに書いているのを見て、不思議に思う方もいるだろう。これまでも多くの大臣が失言で辞任しているのを見て、多くの国民は情けなさを感じているであろうし、力量のなさを嘆いているだろう。
タイトルにもあるように、この発言自体が道徳教育の過ちを示しているから、このカテゴリに記事を書いている。今回の発言の骨子は、排除と抵抗である。道徳教育を反対する日教組を排除する考え方と、国家に対してごねる人々を批判しているのである。
実は、この考え方の異なる者への排除と権力に抵抗を許さない考え方こそが道徳教育の本質である。前にも書いたように、道徳教育の起源は戦前に行なわれていた修身にある。それは、日本が戦争をするために、いや戦争に勝つために国民を洗脳する道具として使われていたからに他ならない。
道徳教育は滅私をなすために使われる教育方法である。究極の滅私とは特攻精神である。今世界でこれをやっているのがテロである。しかし、人間は多くの場合そこまでなれない。道徳教育の滅私要求に対しして抵抗する方法が一つだけある。
それは、振りをするという行為である。これは多重人格と同じ構図を持っている。自分に対する圧力を逃れる為には、また、自らの正義を貫く為には、道徳教育に潰されないように人格を分けるという行為が欠かせないのである。
中山大臣もその一人である。恐らく、発言を見ても分かるのだが、彼は自らが間違っていると思っていない。大臣の地位や責任を放棄してまでも自分の意思を貫き通しているのである。まるで、子どものようである。ご存知の方はご存知であろうが、GHQのマッカサー長官は、日本人を指して12歳の子どもであると評している。更に、以前はアダルトチルドレンなる言葉も流行っている。
真に道徳的な人は一体どんな人だと皆さんは考えているだろう。歴史上の人物でも良いし、現存する人物でも良い。私は健全に進めば究極的にはホームレスだと思っている。昔は高僧と呼ばれた人達がそうであったように思う。
高僧になるための条件は、人が吐いたものでも食べれる人でなければ出来ない。高僧と呼ばれた人たちは、そこまで自分を追い込み自我を殺していったのである。恐らく、見た目は今のホームレスであろう。健全にと書いたが、では不健全であればどうなるのか。それが精神を患う者や自殺者、いじめや差別の根源となっているのである。
つまり、中山大臣が道徳教育の反対を唱えたらしい日教組を解体させるというような発言を、道徳教育を極めた人であるなら、絶対にしないことを意味するのである。彼は確か官僚出身であり、一般の人よりも公的な意識が強い人間であると思う。
私利私欲に走るのではなく、国家や社会の事を考えている人である。それが政治家の原動力であることは間違いないと思われるが、道徳教育の負の部分によって、彼は非人間的な行動を取っているのである。非人間的な人は話し合いが出来ない。
だから、いじめや暴力という力で押さえ込もうとする。日教組を解体させるという意思は、恐らく、彼が独裁者であればきっとやっていることだろう。つまり、社会を合議によって成り立たせようという意識ではなく力によって制圧しようという意識が強いのである。
そこには振りをしているという現実がありながら道徳教育で教える滅私があり、彼は私利私欲では動いていないという核心を持っているからに他ならない。しかし、実はそう思うこと自体が私利私欲であり、他人を容認できない自らの身勝手を証明しているに過ぎないのである。
最終的には、そのことに気付かないというのが道徳教育の最大の問題であるということである。そして、中山大臣の発言に対して、野党や国民も一斉に排除を求めている。人格を批判している人も多いのである。しかし、そのこと自体が、道徳教育が全ての国民に浸透しているという証でもある。
我が国の憲法には、基本的人権の尊重が謳われている。それを制定して半世紀以上が過ぎているし、問題の日教組さえ、基本的人権の尊重は大いに賛同し強力に推進している。また、教育行政の要である教育基本法にさえ憲法の精神を貫くと書いてある。
教育現場の集団である日教組と、教育行政の中核を担う文部科学省が同じような目的を持ちながら、未だに憲法の精神を国民に根付かせることが出来ない現実がそこにあるのである。それは、我が国の民主主義が実現できない大きな要因でもある。
今世界で争っている人たちを見れば分かるのだが、全ては滅私による大義である。民族問題、宗教問題という風に見えるのだが、それを支えているのは自我を捨てるという行為である。自我を捨てるから殺人が可能となり、そのことが多くの人たちに不幸をもたらしているのである。
日本人と道徳精神の関りは決して深いものではない。根強く浸透しているように見えるのだが、僅か80年足らずの歴史しかないのである。だけど、まるで先祖代々そうであったかのように根付いている。実は、それだけ学校教育というのは国民に対して絶大なる力を持っているということである。
日本を真の民主国家として動かす為に、世界から戦争をなくす本質的な力を秘めている日本人の素質を導き出す為に、少なくとも道徳教育を学校で止め、法治国家である日本に欠かせない法教育を充実させなければならないと私は考える。