ものの本によると、人が二足歩行を始める理由の一つに、臆病だったという説がある。
確かに、人類は常に恐怖と戦ってきている。最も強烈なのは自然災害であろうし、今でも、これに立ち向かう術はない。自然災害と言えば、風水害とか地震とかを思い起こすかもしれないが、それより干ばつが脅威になっている。
干ばつによって農作物が収穫できないければ、食料が不足し人は人としての条規を失う。生命体としての本能だから仕方がないが、他人を殺しても自らが生き残ろうとする。そういうのを防ぐ為に社会というものを形成し、秩序というものが生まれてきたのかもしれない。
また、干ばつを防ぐ為に神という存在を作り出し、祈るという行為も編み出したのであろう。しかし、それは神の仕業ではなく、単なる自然の摂理でしかない。それでも、幸運を感謝するという気持ちが生じたのは重要なことであると思う。
恐怖というものに対して、集団を作るという自力行動と神を作るという他力行動で精神の安定を図り、穏やかな人生を送りたいと思うのは自然の成り行きであるように感じられる。しかし、それでも恐怖が消えることがなく、より安定を求め侵略という行動に出て行ったのではないだろうか。
もちろん、同じ人間であるから、こちらが攻めなければ攻めてこられるという恐怖心もあったに違いない。いずれにしても、その行動が引き起こす悲劇が後に大きな波紋となっていることは、今を生きる人間にとって紛れもない事実として理解できると私は思う。
人類が誕生し100万年、近代文明以降2000年という時を隔てた今、私たちを支配しているものは一体なんだろうと考えると、未だに恐怖心であることに驚かされるのは私だけだろうか。小さい子どもたちでさえ、良い中学に入れなかったらどうしよう、友達にいじめられたらどうしようなど、常に恐怖心と向き合いビクビクしているのである。
大人社会は更に悲惨であり、失業したらどうしよう、仕事がうまくいかなかったらどうしよう、会社や近所の人たちをうまくいかなかったらどうしよう、など恐怖心を書き立てるものに困る事はない。
しかし、そのために人類は色々なものを発明していることを忘れてはいけないと思う。政治という困った人を助ける方法、様々な機械という文明の利器、そして何より言葉というコミュニケーションツールである。
経済至上主義と言われる社会において、本当に恐怖心から逃れて平穏に暮らせる人は殆どいない。我々貧乏人からみるとお金をたくさん持っている人は、平穏に暮らしているように見えるのだが、その生活をいじするために更なる恐怖心と戦い続けているようである。
今や様々な技術革新と対話によって、古代にあった恐怖心の種は概ねなくなっている。本当は2000年前より遥に平穏に暮らしていなければおかしいのであるが、実際はそれを実現するどころか新たな恐怖心の種によって、よりひどい状況に陥りつつある。
人っていうのは、そういう性分にあるのかと言えなくもないが、私は違うような気がする。少し考え方を変えるだけで世界は大きく変わり、全ての人が平穏に暮らせる環境が築ける状況にあると考えている。そのためには、人々の心から恐怖心を出来るだけ取り除くことであると思う。
恐れを知らないのは良くないが、恐れに縛られるのは最悪である。