掲示板への投稿で感じたことをブログに残します。


日本社会は、まさにいじめのオンパレードとなってきたように思えます。一般的には、弱い者いじめという言い方をしますが、いじめる側が強いのかと言えば決してそんなことはない。強い人間とは、他人をいじめたりはしないから、結局、弱い者同志でいじめ合う構図になっているのが正解ではないだろうか・・・・


そういう実態を目の当たりにして、学校ではいじめを止めさせようと言う運動を行なっている。監視体制を強化させ、いじめと言う行為を発見し直接止める作戦である。なんだか小学生が考えそうな作戦をいい大人が真面目に行なっているのが微笑ましい限りである。


いじめの根源は学校にあるのではない。大人社会に要因があって、それが子ども社会に転移したに過ぎないのである。では、大人社会の問題点とは何であるか?


それは、弱いものを救う術がないからである。困った人を助ける手段がないからである。いや、厳密に言えばないわけではない。日本という国が民主主義で主権が国民にある以上、国民がやろうと思えば何でも出来るのである。


そういう制度にはなっていても、制度を流れるOSが形成されていないのである。分かりやすく言えば、ウインドウズでマックを動かすことに似ている。日本をこれまで支配してきたのは、働かざる者食うべからずに代表されるように、セルフディフェンスの意識である。


誰かに世話になることを良としない習性である。本来の農耕民族からして、これはやむを得ない習性と考えられる。貧しい農家にとって、働けない者を養っていくほど余裕はないのである。こういう状態がほぼ100年前までは主流であったと思う。


そうした発想を先祖代々受け継いでいるので、他人に世話になることを快く思わない思考回路は未だに生きているのである。従って、自分が働くことを必死で行なうのである。それが嫌な仕事であろうとも頑張る人が多いのである。


しかし、だからこそ終戦の焼け野原から奇跡的な復興を遂げたことは言うまでもない。


日本人にとって、仕事を失うとは死をイメージさせるのである。だから、仕事を失わないようにビクビクしながら生きていかなければいけない。色んな事に気を使い、色んな事を犠牲にして。それが日本人を追い詰めるのである。


そうした恐怖が他人を陥れたり、蹴落としたりすることを容易にする。そういうストレスが、自分より更に弱い立場の人間に対して攻撃的になる要素を醸し出すのである。



本来は、民主主義になった時点で、全ての人には国家という後ろ盾が出来、安心して暮らせるような憲法も作ったのだが、内面的には早々簡単には変われないのである。これから、数十年の時を経て、日本人が変わらなくてはいけないのはこの点である。


別に難しいことではないが、根本的な思想に触れるので実はとても難しいことである。


私は、具体的に何か変わろうとするのではなく、まず憲法というものをじっくり見て、この国の国民として何が出来るのか、国家は国民に対して何をしてくれるのかということを考えていくことではないかと思う。


国家が国民を守る最後の砦である。そして、その術は主権者たる国民が考えなければならない。このことを素直に実行すれば良いと思う。大事なのは、その時に昔から引きづっている概念を少しずつ開放することであると思う。


人は、自分の意思で生まれてくるのではない。だから、生まれてきた環境に責任をもつ必要はない。ただ、環境を変えていく使命を持っているのである。恐らく、これが私たちに課せられているものではないかと思う。