教育のカテゴリにするのか、政治のカテゴリにするのか悩んだ挙句、教育にしました。


今、若い人たちの社会に対する不満は増えてきています。一番堪えるのは年金保険料であろうかと思います。自分達は大して貰う保証はないけれど、払う保険料の高いこと高いこと・・・給与明細を見れば一目瞭然でしょう。


こうした事態に対して、若い人たちは何の抵抗も出来ない。


これは、教育による力がとても大きいと考えています。日本政府もデカイが、学校という存在は、子ども達にとって政府以上に強大な存在であります。その環境で、すくすくと育つはずの12年という貴重な時間を、まるで陸軍士官学校にいるような圧力の下、教育を受けているのであります。


現在は、陸軍士官学校ほどの強制力を失ってはいますが、基本的な体質はさほど変わっているわけではありません。福沢諭吉が、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと言っていると学校でも習いますが、学校で教わるのは、人の上の人と、人の下の人達ばかりが存在することでしょう。


上には逆らわない。これが日本社会を生きる掟となる。学校で言いたいのは、恐らく、そのことであったのだろうと今感じています。憲法に謳われる、基本的人権なんて一体どこにあるのだろう。学校にないということは、下手したら国家にもないことを意味するのではないかと思ったりもするわけです。


人には、コンピューターと同じくOS「基本ソフト」というものが存在します。基本理念というのか、基本概念というのか。こうしてみると、コンピューターはまさしく人の分身であるとつくづく思うわけです・・・・


その醸成を計るのが青少年時代になる。そこで植えつけられるOSが、その人の人生にとって大きな行動指針となるわけです。そこを牛耳ることによって、社会を牛耳ることが出来るといっても過言ではないでしょう。


つまり、今の若い人たちは、相当の決意を持たなければ体制に逆らう行動が取れない状況を作り出されているのです。こうした状況が、若い人たちの不満のはけ口を犯罪へと向かわせるのです。


教育者たちを別に責めているわけではありません。実際は、彼等も被害者であり、こういう事態を予測していたわけではないからです。教育と矯正を混同した頃から道は大きく変わり始めたように思います。


子どもたちが、学校を自らの力で変えられる社会でなければ、本当の意味で主権者たる国民は誕生しないことでしょう。まだまだ、新日本国が誕生して60年余り・・・・これから先、何が起こるか分かりませんが、国民が主権者になることを暗示することが起こるのではないかと思います。