秋葉原事件 「酒鬼薔薇世代」という括りに違和感
 MSN産経ニュースが、秋葉原無差別殺傷事件の加藤容疑者を「酒鬼薔薇」世代と名付けた記事を発信し、ネットで話題となっている。..........≪続きを読む≫


こういう論調は間違っていると思う。ゆとり教育、ファミコン、ネット、新しいことをやることによって悪い事が起こると、すぐにスケープゴートしてしまう。


人の気持ちと言うものを全く考慮しない機械的な発想であると思う。マスコミと言うのは毎日毎日まるでベルトコンベアーに乗ってくる事件を機械的に処理しているのだから仕方ないことなのだろうか。


オウム事件の麻原、女児惨殺の宮崎、酒鬼薔薇、そして秋葉原・・・別に毎日、いや毎年あるわけではないけれど、とても人間が行なえるようには思えない事件が実際には起こってしまう。


人間ではない・・・非人間的というのは、どういうことなのだろうか?


機械的なマスコミも非人間的と呼べるだろう。また、神も非人間的であると言えるだろう。


こうした条件にあてはまるものと言うのは一体何かと言えば、自我を消すと言う行為である


人には感情というものがある。自我を消すというのは感情を消すことに他ならないのである。自我というのは「ワガママ」という言葉で表現される。個人の尊厳、個人の自由、こういったものが横行すると社会が乱れるという発想から、社会秩序を守る為にモラルや道徳というのが教育されるのである。


自分で考え行動するというのは、自分で感じて行動するということであり、常に感情と論理の戦いになる。論理、理屈というのは、犯罪者にもある。一般的には動機と呼ばれ、裁判では大きな争点となる。


道徳の精神は自己犠牲である。自己犠牲を美しいものとして賞賛し推奨する。確かに、純粋な自己犠牲というのは美しいものである。しかし、それは他人に言われてやるものではない。自ら進んで行なって初めて意味があるのである。


道徳的精神を否定するつもりは毛頭ない。しかし、それを他人に強要する教育に問題があると繰り返して言っているのである。人は人ゆえに、神の側面と悪魔の側面を持つのである。どちらか一方だけを取ろうとしても無理な話なのだ。


神のような人間を育てようとして悪魔を育てることになる。


マスコミで道徳教育の問題点を指摘したのを見たことがない。何故なら、彼等も道徳教育の被害者であるからだ。自分を消されてしまっては自分を捕らえることが出来ないのである。結局、何か新しいものを見つけてスケープゴートするしかないのである。