生きる意味を見失う人が結構いるようだ。


生きる意味とは、自分探しの旅であると思う。


どういうときに自分が喜ぶのか、悲しむのか、笑うのか、泣くのか、などなど。自分の持つ感情や思考を自分自身で検証していくのが人生ではないかと考える。


生きる意味を見失うとは、自分自身を見失っているという意味ではないか。


何故、自分自身を見失うかといえば、他人本位に生きている証拠である。自分が他人からどう思われるかというのが基準になると、自分自身を見失うことになる。


こうした現象も、道徳教育の弊害の一つといえるだろう。


自分という人間をしっかり観察し理解することが一番大切である。自分という人間を理解できなければ他人を理解できるわけがないからだ。


しかし、一般にはまず他人を理解することを求められる。順序が逆なのである。だから、全てはうまくいかないのだ。理解できない他人が増えるから人は孤独になる。孤独は不安を生みだし不安が社会を壊すのである。


自分が分からない人が増えている。自分が分からない人がこの世にいるのはおかしいのだ。何故、分からなくなるかといえば、他人を基準にするからである。ウインドウズのアプリケーションがマックで読めないのと同じ理屈だ。


自分がわからない事はない。自分とは自分にとってありのままを意味するのであり、それを自分の目で確認するに過ぎないのである。それは、芽が出るように、花が咲くように、息をするように、本来ごくごく自然な事なのである。


人は自然の産物である。決して人工的な作り物ではない。それは、自然界で生きる様々な生き物と同じなのである。自分を見失う花や自分を見失い犬はいない。もちろん、それらに自分という概念はないだろう。しかし、自分という概念がなくとも、自分という存在をもっているのは事実である。


恐らく、それが自然に生きるということではないかと思う。私たち自然界に生きる人間は、もっと自然を意識すべきではないだろうか。全ての問題は、自然を忘れることから始まるのかもしれない。