Modern Times | 作者は作品の意味を語らなくてはならないのか? 親から生まれた子は、独自の世界を持つ

 

「Modern Times | 作者は作品の意味を語らなくてはならないのか? 親から生まれた子は、独自の世界を持つ」がちょっと面白い。

 

福島真人(ふくしま・まさと)

東京大学大学院・情報学環教授。専門は科学技術社会学(STS)。東南アジアの政治・宗教に関する人類学的調査の後、現代的制度(医療、原子力等)の認知、組織、学習の関係を研究する。現在は科学技術の現場と社会の諸要素との関係(政治、経済、文化等)を研究。『暗黙知の解剖』(2001 金子書房)、『ジャワの宗教と社会』(2002 ひつじ書房)、『学習の生態学』(2010 東京大学出版会、2022 筑摩学芸文庫)、『真理の工場』(2017 東京大学出版会)、『予測がつくる社会』(共編 2019 東京大学出版会)、『科学技術社会学(STS)ワードマップ』(共編 2021 新曜社)など著書多数。

 

「多くの人は、現代アートを鑑賞するときにその意味を問う。そしてその答えを作者に求める。しかしその行為は、果たして鑑賞者を豊かにするものだろうか。作者と作品の関係性から紐解いてみよう。

Updated by Masato Fukushima on April, 26, 2024」

 

「作家は無意識の試行錯誤のなかで作品を生み出す

最近メディア等でよく聞く造語の一つに親ガチャという言葉がある。路上のカプセル玩具、オンラインゲームと起源は色々あるようだが、自分の親のステータスによってその子供の運命も決まってしまうという運不運を言うらしい。これは最近一部で活発に議論されている新封建主義論のように、階級構造が固定化し、親の社会的出自によって子供のそれも決定されてしまうという意味合いがあるようだ。他方、毒親といった別の用語もある。子供をあたかも自分の所有物、ペットのように考え、いつまでも介入、干渉をいとわない様子を批判する言葉である。これは我が近隣の乏しい事例でも見かけることがある。だがここで論じたいのは、こうした家族社会学的病理の問題ではない。」

 

「作品は作者から独立した存在でもある

その話の前振りとして、篠田はニューヨークの著名な美術評論家の話を紹介している。彼は作品を見る際、作家名は見ないという。そうした情報が入ると、作品に対してまっさらな気持ちで対峙できず、情実を含む個人的な感情がそこに入ってしまうからである。実は愚作なのだが、友人の作だからどうしよう、といった態度のことだろう。かつてデュシャン(M.Duchamp)は、著名作家でも名作は一部に過ぎないと喝破し、また昔のアート雑誌に「巨匠の駄作」という特集が組まれたこともある。確かに一見駄作と感じても、昵懇の作家のものだとすると、大目に見てしまうのもまた人情である。」

 

「時代の潮流を具現化しただけのものなら、作品は作者の所有物にすぎない

この点で近年目立つのは、現代アート展覧会というと、エコロジーやダイバーシティといった、入学式の学長訓示のような紋切り型の企画が目立つという点である。アート概念が多方向に拡散し、何をもってアートとするかの定義もますます曖昧化する一方、こうした国連宣言のような形での収斂があるのは興味深い現象である。その背後にある、アート・ワールドの特殊な業界構造を垣間見させる傾向だと言えなくもない。」

 

「子供は親を通じて生まれるが、独自の世界を持つ

しかし、子供が親の持ち物ではないように、作品も作家、あるいは時代の潮流に抵抗する。あるいは抵抗できるもののみが、歴史の変化に絶えて生き延びることが出来るともいえる。前に記したアフ・クリント(H.a.Klint)の映画では、彼女が女性だったから歴史的に正当に評価されなかったという点が強調されていた。他方、彼女の作品が現在生きる我々にどういう(個人的な)意味を持つのか、という点についての探求はややおざなりであった。西洋抽象絵画の歴史が書き換えられるという話は、美術史家以外にはある意味どうでもいい面もある。むしろ彼女の不思議な抽象画が現在の我々に何を訴えるのか、そうした実存的な意味の方が遥かに興味深い。」

 

(写真:Gorodenkoff / shutterstock)

 

小松 仁