Modern Times | AIがもたらす「感覚」の変化。新技術は生まれるたびに人の知覚を変えてきた

 

「Modern Times | AIがもたらす「感覚」の変化。新技術は生まれるたびに人の知覚を変えてきた」がちょっと面白い。

 

久野愛

東京大学大学院情報学環准教授。東京大学教養学部卒業、デラウエア大学歴史学研究科修了(PhD,歴史学)。ハーバードビジネススクールにてポスドク研究員、京都大学大学院経済学研究科にて講師を務めたのち、2021年4月より現職。専門は、感覚・感情史、ビジネスヒストリー、技術史。『Visualizing Taste: How Business Changed the Look of What You Eat』(ハーバード大学出版局,2019年)でハグリー・プライズおよび日本アメリカ学会清水博賞受賞。近著に『視覚化する味覚-食を彩る資本主義』(岩波新書、2021年)。

 

「新技術がもたらすのは、利便性や速効性だけではない。それは人の感覚そのものに変化をもたらす。かつてガラスが人類にもたらした感覚の変化を紐解き、AI技術が何を供しようとしているのかを考えるヒントにしてみよう。

 

「・写真や映画などの複製技術は、知覚の変化をもたらす

写真や映画などの「技術的複製」に関する論考の中で、このように述べるヴァルター・ベンヤミンにとって、これらの技術・メディアは、単に「一回性を克服」するためのものではなく、クローズアップやスローモーションのような様々なテクニックによって、人間の知覚のあり方を大きく変えるものでもあった。クローズアップは空間を拡大させ、スローモーションは時間を延伸させることにより、それまで見えていなかったもの、知覚されていなかったものを初めて感じ取れるようにする。そしてベンヤミンは、そうした知覚の変化をただ記述するに留まらず「知覚の変化となって現れることになった社会的大変革を明らかに」することの必要性を論じている。」

 

「・ガラスは「新時代をもたらすもの」だった

ガラスが大々的かつ象徴的に建築物に用いられた例としては、1851年の第一回万国博覧会でロンドンに建てられた「水晶宮(クリスタルパレス)」が有名だろう。煌びやかなその姿は多くの観客を魅了した。20世紀に入り、1914年には、作家で画家のパウル・シェーアバルトが『ガラス建築』を出版している。本書は、ガラスが新しい文化、すなわち「ガラス文化」をもたらすものだとして、ガラス利用に関する提案事項とともに、新技術によって可能となるであろうユートピア的世界について論じたものである。シェーアバルトは、この他にも『The Gray Cloth』などの小説を含め、ガラスに関する著作を30篇ほど残している。ガラスは「新時代をもたらす」ものだと考えていたシェーアバルトの『ガラス建築』は、友人でもあった建築家ブルーノ・タウトに大きな影響を与えた。タウトは、1914年5月にドイツのケルンで開催されたドイツ工作連盟主催の建築工芸展に「ガラス・パビリオン」を展示し、その建物にはシェーアバルトの詩を刻みこんだ(ドーム型のガラス屋根の下に見える帯状の部分に書かれたもの)。」

 

「・ガラスが「外」と「内」の境界を曖昧にした

ガラスは、その透明性によって「外」と「内」を浸透させ、それらの境界を曖昧にすることで、ガラスによって隔てられた空間や周辺環境を人がいかに認識し、体験するか、そうした方法を変えるものだったのだ。」

 

「・素材がブルジョワ的価値観や生活様式を壊すものだと考えた

ガラスは「冷たくて飾り気のない物質」であり「ガラスでできている事物は、いかなる〈アウラ〉ももたない。ガラスはそもそも、一切の秘密の敵なのだ。」と論じたのは、冒頭で引用したベンヤミンである。1933年の論考「経験と貧困」の中で、ベンヤミンは、先述のシェーアバルトに言及しており、ユートピア的な「夢」をもたらし、人々を解放しうるものとしてガラスを措定した。「アウラ」を持たず「一切の秘密の敵」であるガラスとは、すなわちベンヤミンにとって「痕跡」を残さないものであった。19世紀フランスのブルジョワジーたちは、壁飾りなどの室内装飾を施すことによって自分たちの「痕跡」を残すのが習慣となっていた。だが、ガラス(および鉄鋼)建築が出現したことで、ベンヤミンによると「シェーアバルトがガラスでもって、またバウハウスが鉄鋼でもって、痕跡を消すということを遂行した」のである。すなわち、モダニズム建築の誕生は「痕跡を残すことが困難な部屋を創り出した」のだ。ベンヤミンは、このようなガラスが、ブルジョワ的価値観や生活様式をはじめとして従来の社会を打ち壊し、近代技術や社会環境を新たに特徴づけるものになると考えていた。それは、西川純司が論じるように「資本主義の外部を垣間見させ」、集団を夢から覚醒させるような、ある意味で「革命」の契機になりうるものだったといえるかもしれない。」

 

「・資本主義システムに飲み込まれた技術

ベンヤミンは、資本主義の象徴としてのパサージュ、さらには鉄道駅やカフェなどの建造物の材料となったガラスを通して、19世紀パリに渦巻く欲望や夢に光を当てようとした。ベンヤミンがガラスとその透明性の中に見たものとは、近代的技術とその可能性、そしてその後の「失敗」、さらには人々の感性、また知覚の変化であったともいえるだろう。ガラスのショーウインドーを通して、店内に陳列された様々な商品が、道を行き交う人々の目に飛び込んでくる。ガラスは、資本主義社会において、物神崇拝のための場を作り出し、それは、ベンヤミンが言うように、ファンタスマゴリアとなるのだ。同時に、ガラス内の商品を横目に行き交う遊歩者フラヌールは、そのガラスに映った自らの姿も見ることになる。ガラスを通して見る(look through)と同時に、ガラスそのものを見る(look at)ことによって、商品(=オブジェクト)と自分(=サブジェクト)とが溶解する。そしてそこに新たな欲望が生まれるのである。ガラスは、単なる透明な素材として建築様式や都市の風景を変化させただけではなく、その透明性によって、人々が見るという行為、さらにモノや周辺環境との接し方・見方を変えるものでもあったのだ。」

 

「・AIがロボットとして可視化されると、その権力構造は隠されてしまう

ガラスの透明性が提起する権力や解放、欲望をめぐる議論は、私たちの生活に浸透しつつある様々な技術、例えばAIをはじめとするデジタル技術について考える上でも一つの見通しを与えてくれるのではないだろうか。シェーアバルトやタウト、そしてかつてのベンヤミンがガラスにユートピア的ビジョンを抱いたように、今日のAIは、ユートピアを実現しうる技術として夢見ている人々もいるかもしれない。」

 

「・技術を通して、何が見えるのか

先ほどの鏡の透明性の議論に準えるならば、AI技術を通して見えるものと、その技術の鏡像となって立ち現れるものの両方に、現代社会におけるAIのあり方を理解し再考するヒントが隠れているようにも思う。前者は、例えばビッグデータを用いてある現象を分析するなど、AIを通して(利用して)社会を理解しようとする試みなどである。後者は、AIを使うという行為に自己を映し込み、自身のアイデンティティや主体性、感性などを(再)認識することである。技術に何ができるのかということだけでなく、それを通して何が見えてくるのか、また人はその技術を通して何を見ようとしているのか、何を見たいのか。そして、それはなぜなのか、ということを理解することが、AIを「失敗」に終わらせないための一つのきっかけになるのかもしれない。

 

小松 仁