茂木健一郎さんの、「2017年7月某日 私のドッペルゲンガーとしてのもぐら」の以下の内容が興味深い。
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
このように書いたのは、高村光太郎だった。
先日、私は街を歩いていて、奇妙なことを考えた。
「僕の下に道はない。僕の上に道はできる」ということもあるのではないか。
道の上を歩く、というよりは、道の下を歩く、ということも考えられるのではないか。
そんな奇妙なことを考えたきっかけは、「無意識」にある。
一般に、人間の意識よりも無意識の方が広大なのであって、しかも、無意識のほとんどは、直接見ることができない。
散歩をしながら見える風景というのは、つまり、道の上にある公式なものたちである。その佇まいには隠し立てをするようなところもなく、誇らしげに胸を張って、白日の下にさらされている。
ところが、道の下にあるものは、暗い情動であったり、人には見せられない欲望であったり、嫉妬であったり、強い野心であったりする。自分でもそのような感情があることを認めたくない、裏舞台である。
道の下の事情について考え始めると、物事はとたんにやっかいになる。目を背けたくなるようなことがそこには隠れている。しかし一方で、生命のあり方の本質はそこにある、とでも言いたくなるような、ひんやりとした、心を落ち着かせる安らぎも、道の下にはある。
問題は、自分は道の上を歩いていると考えるのか、それとも道の下を歩いていると思うのかということである。
ガード下の赤提灯で飲む時の、ちょっと後ろめたいような、しかし心を安らがせるあの感じは、間違いなく、道の下を歩くという裏事情から派生している。
そんなことを考えていたら、ガード下の風景がとてつもなく魅力的に思えてきて、しかし私はまだ所用があり、道の上を歩く人でい続けなければならなかったのだった。
自分の分身(ドッペルゲンガー)は、道の上を歩く人間ではなく、道の下を掘り進めるもぐらであると考えることは、どんなに豊かなことであろう。
