最近人と話をしていて、相手の人がそのテーマの内容に関してよく知っているような様子で得々と話すのを聴くことがある。
こちらは勿論よく判らないので理解しようと色々尋ねていくと、説明が矛盾してきたり、肝心と思われる点が曖昧であったりする。
実は、私自身も似たような経験があり、別に知ったかぶりをしているのではなく、あくまで本人は判っているつもりが、実は判っていないことが多い。
有名な「ソクラテスの弁明」では、ソクラテス自身は小事・大事ともに疎くて賢明ではない者であると自覚していたのに、「ソクラテス以上の賢者は一人もない」と神託で言われ、世間で評判の賢者たちに会って、その人々が自分より賢明であることを明らかにして神託に反証しようと、実際に賢者と世評のある政治家や詩人などに会って話してみると、彼らは自ら語っていることをよく理解しておらず、そのことを彼らに説明するはめになってしまい、結局、神託の意味を「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、知恵の上で少しばかり優っている」ことを指しており、「最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」と悟るいきさつが出ている。
また、似たような例として、論語(為政第二)で孔子が「子曰く、由やなんじにこれを知ることをおしえんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是知るなり」と述べている。
自分で見て確かめ、考えて本当に知ったことを「知る」という。そうではなくて、世間一般の常識や情報に従っただけで、自分ではっきり考え抜いたわけではない知識は知るとは言わない。この二つを厳しく吟味することが「知る」ということなのだ。
(北尾吉孝氏「君子を目指せ、小人になるな」)
どうしても自分自身の思い込みというものがあり、知らず知らずのうちに有識者然となりやすいので、常日頃、「判ったような顔をしていないか、本当に判っている人から見ると笑止千万だぞ」と自ら省みるという習慣を身に着けていく必要があるようだ。
