ここでも何度か触れたように、第二の創業を含めベンチャーや中小・中堅企業の創業者の方々とお会いすることが少なくないが、その企業の今後を支配する大きな要素として、その人のキャパシティ、器の大きさがある。
 
勿論、事業にかけるパッション、情熱は必要だが、成功、成長に結び付けていくにはその組織としての力が必要であり、この人のためには何を置いても力を尽くして完全燃焼したいと思わせる魅力があるかないかが、大きいと感じることが多い。
 
この人間の器の大きさ、器量というものは、実際に出会うと感じられるもので説明の難しいものでもある。
 
これが国民レベルになるとさらに難しくなる。
 
福田和也さんの「人間の器量」の中に、なぜ日本人はかくも小粒になったのか、大きい人がいなくなった、日本中どこを探しても人物というべき人がいない、、一体全体なぜ人材がいなくなってしまったのか、というくだりがある。
 
昭和の後期まで日本には人物といえるような存在が少なくなかったのに、優れた人、専門知識に秀でた人、商才に秀でた人、人当たりのいい感じのよい人、才子で小利口で目端がきいて、気の利いた事も言える人たちはいても人物と呼べるほどの人はいないという。
 
最近の政権、トップたちを思い浮かべるだけでも、実に残念ながら、その通りと感じざるを得ないのではないか。
 
福田さんは、反発を承知の上としながら、日本人が小粒になった第一の原因を60年にわたって戦争がなかったことに求め、戦前の男子は自らが戦場で死ぬ可能性を常に意識せざるをえなかったし、女性たちも自分の家族、父や兄弟、夫が戦地で死ぬかもしれないという覚悟を常に迫られており、命の重さが違っていたとしている。
 
だからこそ司令官の人格が大事だったわけで、この人の膝下ならば死んでも仕方がない、死んでもいい、と思わせるようなそういう器を持った人間がどうしても必要になる。
 
日本以外の世界中の多くの国民が、自らがいつかは戦場に臨むかもしれないという覚悟のもとに生きており、韓国、シンガポール、イスラエルといった新興国の経済、政治のエリートは軍歴を経ていることがごく普通とされており、米国の大統領も、クリントンまでは軍歴を持っていたし、英国のノブレス・オブリージュ(高貴な義務)はいざという時に真っ先に前線に出て行って死ぬということとされている。
 
平和な時代でも覚悟、気構えを持ち続け、自分がしなくても政府や国や社会がやってくれるといった甘え、人間の質の劣化を起こさずにいくことは可能であり、例えば江戸時代は人間の誇りを高く維持継続し、明治維新に繋げているといえる。
 
自らの生き方の反省も踏まえながら、プライベート、私よりパブリック、公を上位に、大事に考える習慣を守っていきたいものと思う。
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