
世界の経済危機への対処についても、僻みでも何でもないが、米国は中国との連携の方に真面目に取り組んでいる印象を受ける。
国中が何となく閉塞感、無力感に覆われているような感じでもある。
日本がもっと若く意気に燃えていた時代となると、明治時代であり、久しぶりに司馬遼太郎の「明治という国家」を読み返してみた。
東郷平八郎が、明治6年(1873年)、留学していたのは、英国テムズ川下流にある小さな職業学校の商船学校(Merchant Navy College)である。
しかも、つてを頼って入学したうえ、年齢を10歳ほど若く16歳の少年として登録している。
本来は、日本政府からのオフィシャルな政府派遣であり、ダートマスの海軍兵学校入学を希望したが、外国人は、ロイヤル・ネーヴィの奥座敷には入れて貰えなかった。
残されている考課表には、「才能」は単にGoodだが、行儀、品行、注意力といったものに対してはVery Goodとなっている。
後に、日露戦争で有名を馳せたとき、校長先生が「東郷は素晴らしい青年だった。在学中は彼をいじめようとする者が一人二人いたけれども、やがて彼をいじめなくなった」と語っていたそうで、いじめをひっこめさせたのは、東郷の気迫だったのだろうという。
気迫というのは、薩摩の城下としては場末のいわばサムライ団地に生まれた、薩摩隼人としての少年期に養われたものだろう
小さな職業学校レベルの学校に、極東の無名の国の青年が、年を10歳もごまかしてまで入学し、すてばちにならず、規律で最高点を取っていたことに、司馬遼太郎は胸の痛む思いを感じている。
後年、バルチック艦隊との決戦の統率者となった東郷は、アドバイスもあり作戦参謀に秋山真之を起用し、自分の役目は、艦橋に立ちつくして死ぬことだとし、実際、長い海戦中、そこから微動だにしなかったという。
艦橋で旗のようにして立つ東郷と頭脳の秋山、部署部署で働く人々といった役割分担がうまく行き、日本人が持っている組織の力学といったようなものの一つの典型をなした。
100年余り前の日本人と、現在の我々が、そんなに遠く隔てられる筈もなく、本来持っている筈の勤勉さ、高潔さに目覚めたいものと思う。