
「親鸞聖人の言葉に、身はこの土におるけれども、心は浄土に遊ぶなりということがある。
この身はまだ浄土に往けないのである。
ところが、身とは何か、心とは何か、それから身と心というものが二つにわかれるか、そうして心だけが浄土に遊ぶというのだが、その浄土というもの、この土というものがまた何であるのかと、問いたくなるのだ。
身と心とがわかれて、そうして心だけは極楽に行き、この身は穢土にいる、心はこの身から抜け出して、ふわりと、西か東かの仏国土にあそぶとしたら、その心の正体を突きとめたいものである。」
「無心完成の世界」には、
「とにかく、一ぺん、その形あるものを脱ぎ捨てた世界にはいり込まなければならぬのである。
身心脱落の世界は無分別の世界である。
無心の世界である。
この無心を体得する時、往生するといってよいのである。
死んでから極楽に行ってもよし、地獄に行ってもよし、どっちでも、どこへでも行って、それでいいという特地の境涯があるのです。」
この二者の分離を考えると、意味合いは違うが、茂木健一郎の基本にあるクオリアが、あらゆる意識の中で「あるもの」と他のものと区別されて把握されるものとされている点を思い起こさせる。