
今後、金融危機から、さらに実体経済の毀損が明らかになっていくと想像すると、大きな時代の変わり目を感じずにはいられない。
このバブルとは、文字通り、金融工学を駆使したマジックで、実体経済の上に見せかけにすぎない経済価値をかぶせていたわけで、個人の生活で考えると、実収入が100の所を、たとえば住宅の将来の値上がりを前提にローンを組み、クレジットを使い続け、150から200の借金生活を回しつづけるようなものである。
アイスランドのように国の単位でこのような行動に走っていたところは、国自体が破産してしまうことになる。
また、米国民は、昔から、キャッシュでの購入を離れ、クレジットカードでの支払いで先送りを繰り返していたので、実収入に応じた生活という感覚に乏しいと言われる。
現在は、不安から必要以上の緊縮に向かい、事業は成り立っているのに金が回らず黒字倒産に陥る危険や、極度の需要急減から事業も成立しなくなる危険があり、本来のレベルにソフトランディングさせるのに、国による公的資金導入とさらに財政出動はやむを得ないと思う。
といっても、これの出所は税金であるから、みんなで少しずつ負担しようとするもので、必ずこれに相当するものをどこかで我慢することになる。
結局、実体経済上に見せかけの収入があるかのような生活は、元の実体に戻らざるを得ないわけで、個人レベルに置き換えると、より貧乏な生活に落とさざるを得ないことになる。
最近、中野孝次「清貧の思想」を読み返したが、これはもう16年も前、バブルの絶頂期に書かれたものだが、貪欲なものの追及を離れ、現在のエコ思想にも通じるところがある。
「確かに物は豊かになった。EC圏のどの国にも劣らぬくらい市場に物は溢れている。しかし、物の生産がいくら豊かになっても、それは生活の幸福とは必ずしも結び付かない。いや、むしろ物にとらわれる、購買、所有、消費、廃棄のサイクルにとらわれているかぎり、内面的な充実は得られないことに気づきだしている。限りないものの生産と浪費が地球上での共存の上からも、環境と資源保護のためにも許されないことを知っている。真の豊かさ、つまり内面の充実のためには、所有欲の限定、無所有の自由を見直す必要があると感じている。・・・」
当時、こんな考え方では、消費が伸びず経済が成長しないという批判もあったように覚えている。
今、グローバル資本主義というアメリカ型の手法が過度に重視されてきたのは批判されるのはやむを得ないし、将来、地球上の環境と調和ある発展をしていくためには、最初にあげたように、大きな時代の変わり目、根本的に見直す時期に来ているとあらためて強く感じる。