
子母沢寛の「勝海舟」や「おとこ鷹」といった小説も面白いが、本人の話を会話体で生き生きと記録した「氷川清話」や「海舟座談」(巌本善治編)の内容が面白い。
「氷川清話」は、昔の吉本襄(のぼる)編集版に意図的な書き換えや誤まりが多かったのを、「海舟余波」の著作でも有名な江藤淳が徹底的に改めたものが講談社より出ている。
この中に、後援者渋田利右衛門との出会いの逸話が出てくる。
海舟が、若い時、非常な貧乏生活を送りながら読書するのに、小さな本屋(嘉七)で立ち読みのようにしてむさぼり読んでいたのを、主人から話を聞いていた利右衛門が声をかけてきたのが始まりである。
利右衛門は函館の大商人だが、無類の読書家であり、海舟の家を訪ねてきた次のくだりも絵に描いたようである。
「2,3日すると、渋田は自分でおれの内へやって来た。この頃おれの貧乏というたら非常なもので、畳といえば破れたのが3枚ばかりしかないし、天井といえばみんな薪に使ってしまって、板1枚も残っていなかったのだけれども、渋田は別段気にもかけないで落ち着いて話をして、かれこれするうちに昼になったから、『私が蕎麦でもおごりましょうか』と財布より銭を出し、一緒にこれを食って平気である。そしていよいよ帰りがけになって、懐から200両の金を出して言うには、『これは僅かだが、書物でも買ってくれ』といった。
あまりの事に、おれは返事もしないで見ていたら、渋田は、『いやそんなにご遠慮なさるな、こればかりの金はあなたに差し上げなくとも、じきにわけもなくつかってしまうのだから、それよりは、これであなたが珍しい書物を買ってお読みになり、その後を私へ送って下されば、何より結構だ』と言って、強いて置いて帰ってしまった。
この罫紙も実はその時に渋田がくれたので、「面白い蘭書があったら翻訳してこの紙へ書かせて下され、筆耕料などは今の200両の内から払って下され」と頼んだのだけれど、実際はおれが貧乏で紙にも乏しかろうと思って、それでくれたのだ。・・・・
おれがいよいよ長崎へ修業に行くことになると、渋田は非常に喜んで、『これでこそ私の平生の望みも達したというものだ、私も一度は外国の土地までも行って見たいと思うけれど、親の遺言もあるから自由な事は出来ない。
が、今日あなたに、かような御命令の下ったのは私に下ったのと同じように私は心得ているから、どうぞ十分に御勉強なさい』といって、おれを励ませてくれた。」
さらに、利右衛門は、自分が死んで海舟の頼りになる人がいなくなるのを恐れ、灘の酒屋の嘉納治右衛門(柔道の嘉納治五郎の親で、海舟の神戸時代、機械を購入してくれている)、伊勢の医者の竹川竹斎(地方の屈指の金持ちで数万巻の蔵書を持っていた)、日本橋の浜口(国会議員浜口の本家)らを紹介してくれている。
こういう、人物が人を観ると言った風情は、何か古臭いと思われかもしれないが、人の目利き、人物を見抜くというのは現代でも最も重要で決定的なポイントであり、案外、海外でもよく観察され、逸話となっているようである。