
最近では、若い女性を中心に「空気を読めない」のを略してKYという言葉が使われる様になってきており、昨年の新語・流行語大賞にもノミネートされていた。
ところで、日本では、集団や個々人の心情・気分、あるいは集団の置かれている状況を指すことが多いが、これで思い出されるのが、日本社会・日本文化・日本人の行動様式を「空気」「実体語・空体語」といった概念を用いて分析した山本七平の「山本学」である。
山本七平は、例として戦艦大和の沖縄出撃を挙げ、出撃は無謀であると判断するに至る細かいデータおよび明確な根拠があるにもかかわらず、明確な根拠の全くない出撃が「空気」によって最終的に決定されたと指摘している。
この事象をもって、山本は「それ(空気)は非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ『判断の基準』であり、それに抵抗する者を異端として、『抗空気罪』で社会的に葬るほどの力をもつ超能力である」と述べている。
また、野中郁次郎他による「失敗の本質(日本軍の組織論的研究)」では、大東亜戦史上の失敗例として、ノモンハン、ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、レイテ及び沖縄の6つのケースを取り上げている。
特にインパール作戦は、戦略的合理性を欠きしなくてよかった作戦でありながら、牟田口司令官という強烈な個人の突出を許容したシステム面と共に、人間関係を過度に重視する情緒主義により反対阻止しがたい空気に支配されていた状況が示されている。
これらを考えると、KYとは逆に日本人の特性とも言える和、調和の過度の尊重に流されず、個々の判断基準に従って意見を出し行動する人材が貴重になってくる。
自分もそうであるが、中々自身では気づかぬうちに周囲の空気に支配されている可能性がある。
論語に「曾子曰わく、吾れ、日に三たび吾が身を省みる。・・・」とあるが、内容は別として自分自身の立脚点が惑わされていないか注意して振り返るという習慣づけが大事ではないだろうか。