
マイクロソフトやマッキンゼーで情報通信分野の戦略立案に携わってきた森祐治さんが、今月ニューヨークで開催された米国でのマンガ/アニメビジネスに関するカンファレンス(ICv2 Conference on Manga & Anime)などに出席し、レポートをCNetに載せている。
その中で、
「manga(マンガ)が急速に若年層を中心に普及し、一般社会でも認知が高まる中、先行して市場を築いたanime(アニメ)が失速したままだ。
この状況を指してある大手エンターテインメント流通事業会社の代表から『日本は終わった』『(発祥の地、日本では)mangaも死につつある(ゆえに、米国市場もすぐに落ち込むのではないか)』といった過激な言葉も飛び出し、今後の米国市場の将来を危惧する気持ちがうかがえた。」
と言っている。
「manga(マンガ)が急速に若年層を中心に普及し、一般社会でも認知が高まる中、先行して市場を築いたanime(アニメ)が失速したままだ。
この状況を指してある大手エンターテインメント流通事業会社の代表から『日本は終わった』『(発祥の地、日本では)mangaも死につつある(ゆえに、米国市場もすぐに落ち込むのではないか)』といった過激な言葉も飛び出し、今後の米国市場の将来を危惧する気持ちがうかがえた。」
と言っている。
「一般にはあまり知られていないかもしれないが、現在、北米ではmanga旋風が吹き荒れている。
comicでも、graphic novelでもなく、manga(いわゆるアメコミとは区分して、日本発の右開きのgraphic novelを特にmangaと呼んでいる)なのだ。
mangaの好調は「Shojo」層(といっても、実はミドルティーン以上。日本で言えば「婦女子層」ということになるのだろうが、そこまでコアな人々を指しているわけではない。付け加えておくと、OtakuやYaoiなど、日本とは異なった使われ方をしている専門用語は多い)向けを中心にこれまでよりも広い層へのアピールが浸透しつつあり、結果、一般的な社会的な認知も高まっているためといわれている。
1冊は10ドルほどで売られることが多いので、2000万冊程度が販売されていることになる。
ちなみに日本ではマンガの単行本と週刊誌を含めて5000億円程度の市場規模がある。
それと比べればまだまだ米国市場は小さいのが現実だ。」
comicでも、graphic novelでもなく、manga(いわゆるアメコミとは区分して、日本発の右開きのgraphic novelを特にmangaと呼んでいる)なのだ。
mangaの好調は「Shojo」層(といっても、実はミドルティーン以上。日本で言えば「婦女子層」ということになるのだろうが、そこまでコアな人々を指しているわけではない。付け加えておくと、OtakuやYaoiなど、日本とは異なった使われ方をしている専門用語は多い)向けを中心にこれまでよりも広い層へのアピールが浸透しつつあり、結果、一般的な社会的な認知も高まっているためといわれている。
1冊は10ドルほどで売られることが多いので、2000万冊程度が販売されていることになる。
ちなみに日本ではマンガの単行本と週刊誌を含めて5000億円程度の市場規模がある。
それと比べればまだまだ米国市場は小さいのが現実だ。」
「米国のanime事業者(実は同時にmangaを取り扱っている場合も多い)たちの、日本の作品への尊敬はきわめて高い。
それがゆえに、彼らは北米市場の開拓に賭けたのだ。
しかし、現在、彼らの多くは日本のマンガやアニメ産業の構造的な問題に失望しつつある。
メジャーメディアやネットに端を発する課題への解決の機会を逸しさせている、という見方が強いからだ。
それが、日本は終わった、といった発言などに表れているといっていいだろう。」
それがゆえに、彼らは北米市場の開拓に賭けたのだ。
しかし、現在、彼らの多くは日本のマンガやアニメ産業の構造的な問題に失望しつつある。
メジャーメディアやネットに端を発する課題への解決の機会を逸しさせている、という見方が強いからだ。
それが、日本は終わった、といった発言などに表れているといっていいだろう。」
日本のコンテンツ産業は、本来その姿を広い領域へと広げたクリエイティブ産業になるべきだが、それ以前に海外というこれまた本来最も力を注ぐべき市場からそっぽを向かれてしまいそうな状況にある。
これをどこまで理解しているのか。不安は尽きない。
これをどこまで理解しているのか。不安は尽きない。
ところで、私の好きな作家の一人に、芥川龍之介がおり、時々全集から引っ張り出しては拾い読みしている。
龍之介の作品には、まとまった文学以外に「侏儒(しゅじゅ)の言葉」という箴言(しんげん)集があり、これが又非常に面白い。
「政治的天才」という題で、次のようなことを言っている。
「古来政治的天才とは民衆の意思を彼自身の意志とするもののように思われていた。
が、これは正反対であろう。
むしろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とする者のことをいうのである。
少なくとも民衆の意思であるかのように信ぜしめるものを言うのである。
このゆえに政治的天才は俳優的天才を伴うものらしい。
ナポレオンは『荘厳と滑稽との差はわずかに一歩である』と言った。
この言葉は帝王の言葉というよりも名優の言葉にふさわしそうである。」
が、これは正反対であろう。
むしろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とする者のことをいうのである。
少なくとも民衆の意思であるかのように信ぜしめるものを言うのである。
このゆえに政治的天才は俳優的天才を伴うものらしい。
ナポレオンは『荘厳と滑稽との差はわずかに一歩である』と言った。
この言葉は帝王の言葉というよりも名優の言葉にふさわしそうである。」
日本の政治家で麻生太郎さんという人は、私も好きなのだが、マンガと政治的天才というキーワードに丁度関わり、一寸面白く感じている。