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アジア大会のニュースが盛んに流れているが、メダルの獲得数をみても日中韓が目立ち、他の国々からはアジアの中でこの3国が何となくひとかたまりに見られるかもしれない。
ただし、たとえば国内の駅などで、韓国語表記はさておき、中国語の並列表記を見ても漢字が似たようで違っていたり、ぜんぜん違う言葉が載っていることも多い。
実は、日本国内でも歴史的に見るとずいぶん変化しているようである。
網野善彦「歴史を考えるヒント」によれば、われわれが日常使い慣れている農民の意味で使う百姓(ひゃくしょう)には、本来「農民」の意味はなく、さまざまな生業に従事する人をさしていたという。
中国や韓国の人に、あなたの国では「百姓」はいかなる意味の言葉かと尋ねると、「普通の人」という答えが返ってくるという。日本人が農民のこととしているのが逆に理解できないらしい。
古代には、「おおみたから」や「たみ」の訓にあてはまる言葉が「百姓」だったらしい。
もともと、「百」には「非常に多くの」「あらゆる」という意味があり、「姓」には血縁集団の名前とともに、職能が結びついており、字義通りに考えても「百姓」は、あらゆる姓を持つ人々、あらゆる職業の人々を指す言葉になる。
時代が下って、江戸時代に、ようやく「百姓」を「農民」と同じ意味とする考え方が浸透し始めた模様である。

このように、日頃、当たり前と思っていることも、時間的、地理的に変化していたり、人によって解釈が違うことは結構あり、単純な思い込みにおちいらないようにしたいものと思う。