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NHK大河ドラマの司馬遼太郎原作「功名が辻」もそろそろ終わろうとしているが、この時代のいろいろな登場人物の中で、石田三成という人物の評価は人により分かれるところだと思う。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった、良きにつけあしきにつけあくの強い大物と比べると、一段器は小さいかもしれないが、関が原の合戦という天下分け目の戦いの一方の雄といった受け止め方の方が多いかもしれない。

実は、堺屋太一の「日本を創った12人」では、5人目に挙げられている。
日本では、「偉い人でない人」が大きなプロジェクトをなしうる国で、権力のある人、地位の高い人、大金持ちといった世俗的な意味での「偉い人」はみな受身、新しいビッグプロジェクトの企画などにはまず携わらない。
当時28歳の通産省係長だったが日本の万博プロジェクトをやりとげた堺屋氏ならではの見識であるが、この「偉くない人」が企画推進する日本型のプロジェクト・メーキングの歴史を遡っていくと戦国時代末期の石田治部少輔三成に辿り着くという。
われわれは、関が原の合戦を惹き起こした張本人としての石田三成をすでに知っているが、これは歴史の後知恵というもので、関が原の合戦という天下分け目のビッグ・プロジェクトの粉飾を取り払ってみると、ずいぶん違った小さな実像が出てくる。つまり、石田三成は関が原の合戦の原作者兼プロデューサーとして歴史上に名を残したが、その歴史に記述された三成のイメージや先入観を取り払ってこれを当時の彼がおかれていた地位や力を仔細に見ると違った事実がわかってくるという。
石田三成は当初、原作を書くだけで、演出と出演は宇喜多秀家と毛利輝元に任すつもりだったが、皆、思ったように動かなかったため、佐和山城から出てきて、結局、形式的総大将の毛利輝元、実践指揮官の宇喜多秀家、筋書きを書いた石田三成の三重構造になってしまった。結果として、名作が愚演になったわけだが、原作の仕掛けがよかったから大きな歴史的影響を与え、明治維新でも、「満州国」建設でも、新幹線建設や万博開催でもこの石田三成の形式がそのまま踏襲されているという。

日本という国は、中堅官僚や中堅社員といった人々のネットワークで動かされているのは間違いないと思うし、この日本型プロジェクト・メーキングの良さ、強さをもっと活かしたいものと思う。