
年末から正月にかけて何やかやとやることが多くいつの間にか正月も三が日を過ぎようとしています。結婚したばかりの娘夫婦が来たり、逆に年老いた親の様子を見に行ったりで出入りも多い1週間でした。また、丁度我が家のTVのアンテナが古くなったこともあり、ケーブルテレビにしましたが、ついでにインターネットもADSLから切り替えて、チャンネルが地上波、BS,CS,ケーブルと膨れ上がったのでリモコンの操作も忙しくなりました。
そんな中で、「ローマ人の物語」を年1冊のペースでもう10年以上に渡って書き続けている塩野七生の書き物の中にこんな内容がありました。
・・・ローマ帝国以後、二度と「普遍帝国」を人類は作り出してこなかった・・・
・・・ロ-マにおいて、市民権を持つということは、たとえ人種や民族、宗教が違っていても、ローマの市民と同等の権利を与えられるということに他なりません。
・・・はたして、イギリス帝国はその植民地の人々にイギリスの市民権を拡大したり、そのうちの有力者に英国議席を与えたか。無論、そのようなことは一度として行われませんでした。イギリスはインドをただ単に支配し、インド人をイギリス市民としては遇しなかった。
・・・では現在の「アメリカ帝国主義」において、はたして民族の違い、文明の違い、宗教の違いは許容されているか。これもまた「ノー」と言わざるを得ない。なぜなら、彼らが「最高の価値」と信じる民主主義体制を受け入れない国家は、すべて敵と考えるのがアメリカだからです。
こういった概念、コンセプトを個々の人間に投影して考えてみると、人間の器、度量、寛容といったものに思い至ります。仕事柄、大企業の中の組織構造での各種リーダーや、ベンチャーをはじめ中小企業の創業者等に接してきましたが、結局人間のリーダーシップは迫力とか優秀さではなく他の人間にこの人のためなら力を尽くしたいと思わせる「器量の大きさ」「キャパシティ」にあると常に感じてきました。
新春を迎えてかいつになく、日本人全体がこうあるべきと思う一方、自分を含め各人も努めてみては如何かと感じています。