渡辺千賀のはたらけシリコンバレー 努力はチャンスで報われる!(1/3) | IT関連ニュース

渡辺千賀のはたらけシリコンバレー 努力はチャンスで報われる!(1/3)


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藤野栄二さんはアメリカで働き始めて4年。アメリカでの最初の勤務地はサンディエゴだったが、2009年になってからシリコンバレーに引っ越してきた
<アメリカ><ソニー><Bluetooth><ハードウェア><半導体>

<アメリカ>


現在は半導体のMarvell社でASIC設計技術者として働いている
<ソニー>

Marvell社は売り上げ29億ドルの大手半導体メーカーだ。

アメリカに来てからはじめたサーフィンで真っ黒に日焼けし、ちょっとタレント風な「ロンゲ」が似合う藤野さん。
「楽しく遊びたい!というのが人生の一番最初の目標
<Bluetooth>

遊ぶためにはいい仕事が必要で、いい仕事に就くにはちゃんとしたキャリアが必要だ、ということで、いつのまにか燃える仕事人になってしまいました」と語る藤野さんが、どうやってコア技術企業のR&Dで働くようになったのかを伺った。
バスケ少年から電気エンジニアへ藤野さんは茨城県出身。
バスケが大好きで小さなころから続けていたが、高校時代に突然巷でバスケが大人気になり、「こんなミーハーなスポーツやってられるか」とやめる。
高校時代は片道20キロを自転車通学する日々だった。
そこで「迷ったら理系に行け」と言われ、そんなものかと思って埼玉工業大学へ。
大学では、進路配属面接で、「酒は飲めるか?」と聞かれ「ハイ、飲めます」と答えたことで研究室が決定した。
それまで、バスケの選手、建築家、車の整備などいろいろ将来やってみたいことはあったが、研究室で出会った同期と台湾人の先輩の影響で、「回路設計は格好いい」と思うようになった。
さらに、「ハードウェアが無いとソフトウェアは存在しないからハードウェアの方が格好いい」とも考える。
今ではソフトウェアが無いとハードウェアはタダの箱と痛感しているそうだ。
さらに「この世を支配しているのは何か?何が無くなったら人は一番困るか?」と考えた時、「電気」と考え電気系に進路を決定した。
3年間は文句を言わないと決める就職は研究室の教授推薦で決まった。
「電気系で設計が出来る会社」ということだけが判断基準だった。
後日判明したのだが、面接では本当は不合格だったところを、別の部署の上司が「じゃぁウチの課がもらいますよ」と言ってくれたのでかろうじて合格していたようだ。
勤め先は田町にあるCrescoという会社だった。
仕事の内容はデジタル機器のハードウェア開発。
対象は、エレベータで使われる制御基板、ウォークマン付ケータイのウォークマン基板など。
CADで回路を設計し、基板業者へデータを送って基板設計を依頼。
その間に部品を調達し、ドキュメントを作成し、基板が上がってきたらテストソフトを書いて試験をし、オシロスコープなどの測定器を使用してスペック通りに動くか、動作のタイミングはスペック内かなどを試験してレポートを作成し顧客へ提出、といった一連の流れを担当した。
当時は、通常は朝10時から、夜8時、9時まで仕事、納期前は夜中の2時、3時まで作業して仮眠室へ、といった仕事振りだった。
最初の上司から「最初の3年は人の嫌がる事を進んでしろ」と言われ、これに素直に従って最初の3年間は文句を言わないと決めた。
「今でもこの時の3年間が今の全ての土台になっています」と語る藤野さん。
当時の上司は、アメリカ時代も含め最良の上司で、今でも尊敬する偉大な人だ。
部下に好きなように仕事をさせて、失敗すると自ら社内外に謝り、再度部下にまた好きなように仕事をさせる、という度量のある人で、エンジニアとしての技量も高かった。
また当時の同期にも恵まれ、負けたくない一心でやってきた。
今でもライバルと思っていい励みになっている。
そして入社3年目、ソニーへ出向することになる。
新しい職場は、ソニーの正社員5~6人と、藤野さんのような他社からの出向社員10人ほどが混じって働くという環境だった。
しかしそこでは正社員は出向社員とは口も利かないのが当たり前。
藤野さんも最初は話しかけてもらえなかった。
「正社員席」獲得しかし、1年ほどたったころ最初に設計した回路が動き、ようやく力量を認めてもらうことができた。
「エンジニアは結果を出せば評価され、結果が出なければ自分のせいというシンプルな仕事。
成功も失敗も自分次第というのは気楽だ、と実感しました。
気分はプロスポーツ選手ですね」と語る藤野さん。
その後は、正社員の人たちとも仲良くなり、机も最初の「出向者用」の席から、「社員用」の席へ移してもらい、ディスプレイやPCも3ヶ月毎に最新のものが配置されるようになった。
「自分のやり方が正しかった、と自信がついてきました」と言う。
当時のソニーの上司は仕事も趣味も一生懸命する人で、「仕事は忙しくて当然。
常にベストを尽くす。
いったん仕事が終わったら目一杯遊ぶ」というタイプだった。
この人に学んだ部分も大きい。
ソニーでは、「自信がついた」ということに加え、もうひとつの転機があった。
それは、国際的な仕事環境。
当時は、ソニーエリクソンができた頃で、携帯の部門には海外からの外国人社員が複数来ていたのだ。
それを見た藤野さんは、「外国人と仕事するのって格好いい」と憧れを抱くようになった。
それまでは、Crescoの中で出世しようと努力してきたのだが、「国際的な職場で働く」しいては「アメリカで働く」という新たな目標ができた。
これが「電子回路設計をする」という決意に続く人生2度目のキャリアの方向決定だった。
新たな目標を達成するためには外資系で仕事をしよう、と考えた。
英語は大嫌いだし苦手だったが、どうしたら外資系で働けるか、と考えた藤野さんは、「英会話ではなく回路設計に磨きを掛けることが、将来の転職のチャンスに向けて今やるべき事だ」と強く信じ、さらに仕事に力を入れた。
実際に、数年後、「英語は会話の手段であってアドバンテージにはならない。
重要なのは仕事ができる事だ」といわれ、「英語より回路設計」という自分の考えが間違っていなかったと実感することになる。
アメリカへの道「外資系で働こう」と目標を定めて半年後、とてもお世話になっていたソニーの知り合い経由で、アメリカにあるBluetooth半導体メーカーのTransilicaという会社の日本オフィスへの転職の機会が訪れた。
Transilicaはアメリカに100人、日本に7人の社員がいるれっきとしたアメリカのベンチャーだった。
当時の藤野さんはBluetoothを含め無線は無経験、しかも英語も大いに苦手だ。
しかし、「追い込まれれば何とかなるだろう。
うまくいけば、数年後には両方身につけられる」と、転職を決意。
とはいうものの、一方で「回路設計を極める」という目標からすると、Transilicaの日本オフィスは実はあまり望ましくはなかった。
開発はアメリカの本社のみで、日本は顧客サポート業務だけだったからだ。
しかし、「技術のキャリアより、外国人と仕事ができる環境が大事だ」と思った藤野さんに迷いはなかった。
「これが正しい決断だ」という自信もあった。
ところが、入社後初めてのミーティングで、日本オフィスのトップから「うちは資金が底をつく。
残された道は3つ。
新しくお金を集めるか、買収先を探すか、どちらもだめだったら解散するしかない。
」と言われる。
が、運良く買収先が見つかった。
買収したのはテレビチューナーメーカーのMicrotune社で、TransilicaもBluetoothとテレビチューナーの二本柱で再出発することになった。
藤野さんの担当はBluetooth。
職種はFAEフィールドアプリケーションエンジニアで、顧客となる完成品メーカーとアメリカ本社との間をつなぐ仕事だった。
アメリカで開発したBluetoothのチップと評価用基板を持って顧客を回り、技術的な説明をし、質問に回答、評価作業をサポートしたりアメリカ本社にレポートする、といった技術サポートを行う。
無線関連では、フィジカルレイヤからMACレイヤ、プロトコルレイヤ、アプリケーションレイヤを理解し、シグナルジェネレータ、スペクトラムアナライザなどを使って送信機・受信機の評価を行うのが仕事だ。
しかし、全部が初めての経験で右も左も分からない状態でのスタートだった。
このころの仕事は、朝9時半から夜10時くらいまでが基本だったが、顧客を回った日は、レポート作成で夜中1時くらいまでになるのが普通。
さらに、時差の関係でアメリカの夜中が日本の夕方になるため、日本時間の夕方にアメリカから作業を依頼され、そのまま会社に残って作業、日本時間の夜中2時~3時ごろ、アメリカの朝が始まったところでアメリカとやりとりすることも頻繁にある、というかなりハードな生活だった。

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キーワード:アメリカ ソニー Bluetooth ハードウェア 半導体:キーワード