人がものを考え始めるのは、往々にして不遇の時だ。
10年ほど前、出産以外に病院と縁のなかった私が高熱と吐き気で緊急入院する羽目になったとき、これは自分へのメッセージだと受け止め、時間をかけて、その意味を考えた。
病気は、自分一人で突っ走ってしまうことを止めてくれた。
どうしても人を頼り、人の手を借りねばならず、
私が一人で生きていかなくてもいいように計らってくれているのだ。
ということ。
そして、最終的に私は、この病気は、
「自分と自分に繋がる人を愛せよ」
とのメッセージだと受け取ったのだった。
けれど、ちっとも変わってない。
この10年何をしていたのか。
と、あなたの愛は無機質だと言われた時(前項「無機質な愛」参照)に、想った。
そして、ひとつひらめいたことがある。
一人の女性管理職の姿だ。
・・・
部長職にある彼女は、今、進退の決定を迫られている。
頼りにしたい部下は辞めていった。
頼りにしている上司は、誰からも尊敬されていない。
孤立の極み。
現場に顔を出すこともできず、部長室にこもりっきり。
いつまでもつのか、いつまで引っ張るのかと、皆が噂する。
そんな廊下など歩けるものか。
私に味方しない部下など、誰が守ってやるものか。
守ってくれないあなたに、誰がついていくものかと、組織はバラバラ。小さなミスひとつで空中分解しかねない。
・・・
なんて不器用な。それに薄情かも。
もっと人を大切にしないと・・・うん?
これって、私?
カウンセリングという仕事をしていて、クライエントの話の中に、
この人は好きになれない、嫌な人だなぁ、と思う人物が登場することがある。
あるいは、現実の生活でそういう「イヤな奴」と関わることがある。
その「イヤな奴」のイヤな部分は自分の中にもあり、
「イヤな奴」は、まさに、自分自身だったりする。
スピリチュアル・カウンセリングでは、「合わせ鏡」と表現する。
なるほどねぇ、彼女は私のテキストだったんですね。
彼女が私なら、いやはや、確かに、私の愛は無機質です。
育ちがどうのこうのと弁解の余地もない。
たった今、無機質です。って、威張って言うことでもないけど。
でも、納得してしまうと、もう前に進むしかないから、何だか吹っ切れてしまった。
余命一念プロジェクトを始める前、命の尽きる時に次の二つの問いに
胸を張ってYESと言いたいと、心に誓った。
「自分に与えられた才能を使い尽くしましたか?」
「命の限り、人を愛しましたか?」
まだまだでした。かなり頑張ったんだけど。
人を愛するという才能は、これから磨きをかけましょう。
「無機質です」と言ってもらえるくらいになったんだから。
見込みがなければいわないでしょ。
さあ、愛せよ、乙女!
