仕事はしたことはないが、親しくしていた勝新太郎さん
に連れられて行った、神戸での山口組の面々との宴会。

「仁義なき戦い」のどの役者が一番本物のやくざに近い
かという話題で盛り上がり……。


*   *   *

京都の祇園である晩勝新太郎と飲んでいたら勝っちゃん
に突然一つの依頼をされた。ハワイで勝っちゃんがパン
ツ事件を起こす、まだ大分前の話である。

「オレに一人の兄弟分がいるンだ。神戸山口組の大幹部
なンだが彼が自伝を書きたがってる。

と云ったって自分じゃ書けない。誰かいないかって頼ま
れたから、いい奴がいるってあんたのことを話した。是
非紹介しろって云われてるからこれから神戸まで付き合
ってくれ」

「冗談じゃないよ!」と僕は断った。

「そんなおっかないのと逢うのは御免だ!」
「おっかなくなンか全然ないよ。とても気分のいい男だ。
あんたやくざに知り合いはいるか」

「いないよ!」
「そんじゃ是非逢っとけ。人生と社会勉強になる!」

強引に説得され拉致されるように勝っちゃんの車で名神
高速をつっ走って行ったら、三ノ宮の駅前に黒ずくめの
一団がずらりと並んで僕らを出迎え、そのままクラブに
案内された。

それから一晩。朝までの出来事は、面白すぎてとても書
けない! 黒い紳士たちは妙に明るく、素人への対応を
弁えていた。

そして…同席したのが高位の方々ばかりだったせいもあ
ってか、話の内容と話術が格段に面白く、ブラックユー
モアがそこここに横溢して僕は何度となく、思わず吹き
出した。

たとえば僕のすぐ隣に坐った紳士は、一向にグラスに手
をつけず、時折ホステスがグラスの中身を気づかれぬよ
うにそっと変えており、ふとそのホステスの膝元を見た
ら注いでいるのがウィスキーではなく、全く同色のオロ
ナミンドリンクで、それを見つかった当の紳士は僕に顔
を寄せ、照れくさそうに囁く。

「ドクターストップ、受けとりまンねん」

かと思うと話題は一人の紳士の初孫が近頃慶應幼稚舎に
入学したという話になり、

「どんな手使うた」「なんぼかかった」「なァ教えてぇ
な」と極めてドメスティックな内容になってみたり。かと
思うと外車はアメ車が良いか欧州車がいいか、と若者の
ような白熱の議論になったり。

更に話題は映画の話になり、まるで大学の映研みたいな
結構細かい技術的議論になり、そのうち「仁義なき戦い」
に話がすっ飛んで、どの役者が一番本物のやくざの姿に
近いかというテーマになって、

「文太」「ありゃカッコ良すぎる。あんなカッコええや
くざはおらんで!」

「旭(あきら)」「力みすぎや! 日活映画や!」「山城
新伍」「作りすぎや!!」

一人一人が俎上にのせられ、評論家より厳しく切り捨て
られる。結局誰もおらんということになった。

健さんの名前がいつ出るのかと待ったが、どうやら健さん
だけは神格化されているらしく誰も触れようとしなかった。
そのうち一人が

「おったぜ! 弘樹や! 松方弘樹!!」突然皆が異口
同音に、「おぉあれやあれや!! あのオッチョコチョ
イなとことトンチンカンな洋服のセンスな! あれぞや
くざや! おったおった!!」一同安心し乾盃となった。

学生時代に散々身につけた、盗聴と記憶の手法を用いて、
僕はその日の紳士たちの生々しい会話をそのまま盗用し
てシナリオを書いた。

「冬の華」というやくざ映画である。

フランスの暗黒街物、フィルム・ノワールのような粋な
リリシズムを志したのだが、東映では最初コテンコテン
だった。

何しろやくざの親分がシャガールの絵を蒐集していたり、
BGMがチャイコフスキーのピアノコンチェルトだったりす
るのだから、そんなやくざ映画あるのか! といって、
プロデューサーはカンカンだった。

「冬の華」というタイトルもお気に召さず、「網走の天使」
にしろと云って来た。だが健さんはすっかり気に入り、プ
ロデューサーと闘ってくれた。

映画が完成すると太秦撮影所ではやくざ屋さんの為の総見
試写会があり、神戸からドッと紳士たちが来た。

どうもその頃やくざ映画にはそういう風習があったらしい。

紳士たちはこの映画を観て何故か予想外に興奮してしまった。
「これぞやくざや!」と大拍手だった。

そりゃあそうだろう。僕はあの夜の神戸の体験を忠実に再
現してシナリオに入れたのだから。





構成も何もなくいきなり思いついた一つのシーンを、
身ぶり手ぶりで演じ始めるのである。それは全く唐
突に始まり、凄まじい啖呵から人を睨みつけて始ま
ったりするのだ。

初対面の者は何を怒らしたか事態が判らず、思わず
腰を浮かし逃げ腰になる。ところが一席それが終わ
ると「っていう風にな」と、やおら人なつっこい顔
になるのである。

僕の場合も初対面がそれであり、席に坐るや「クラ
モトてめえ!」といきなり胸元をつかまれて訳の判
らない文句から始まった。ハハン即興だなとすぐ判
ったから黙ってやるままに任せていたのだがそれが
延々と終わらない。

十分十五分と黙って聞いていたがさすがにこっちも
しびれを切らし、敵の手を払いのけ、相手の口を両
手で抑えて、「オレにもしゃべらせろ!」と凄んで
見せたら、びっくりしたように僕の手を外して、

「悪かった。ゴメン。アハハ」と笑い出し、すっか
り気に入られて、友達になった。

勝新太郎とはこういう突拍子もない人である。

だから何度も仕事をしかけたが結局一度も実らなか
った。ひらめきの右脳は冴え渡っているのに、まと
め上げる左脳がさっぱりなのである。

一度玉緒ちゃんと別れると云い出し、事務所で開か
れた記者会見に偶然立ち会う破目になったことがある。

狭い事務所にマスコミがわんさと押しかけてきて何
十台のカメラの放列。まさに鮨詰め状態だったのだが、
殆ど勝新の独演会で終始した。

離婚会見だというのに玉緒ちゃんはいないし勝っちゃ
んは終始威勢よくまくしたてるから、記者たちは質問
する隙さえないし、カメラマンたちはシャッターも切
らない。

何とも珍妙な会見になった。

ところが。勝っちゃんには小さなクセがある。自分の
眉毛がかゆくなるらしく、時々指をたてて目の上を掻く。
話の切れ目にこれをやった。その瞬間、カメラが一斉
にパシャパシャシャッターを切った。

ン? という顔で勝っちゃんがギロリとカメラマンた
ちを睨むとシャッターの音はパッと静まった。

一寸間(ま)があって又しゃべり出した。「だからな」
そこで言葉を切り、目の上を又掻いた。

パシャパシャパシャッとシャッター音がひびいた。
又、静寂。


マスコミは誰もしゃべらない。今度は目を伏せて声の
調子を少し落とした。

「だから玉緒は」言葉を急に呑み、又目の上を掻く。
再び猛然たるシャッター音。

静寂。異様にして奇妙な沈黙の時が流れる。

すると勝新は何故かポケットからハンカチをとり出し、
チーンと派手に洟をかんで見せた。

パシャパシャパシャッ。パシャパシャパシャッ。

…マスコミが去ってから勝っちゃんは嬉しそうに、
「俺が泣くのをあいつら待ってたンだナ。途中で気
づいたからサービスしてやった。クラモッちゃんな
かなか面白かったろう」。…

彼は、いつも、洒落と演技とサービスの人だった。…







多くの物語で光秀は、秀吉との対比で語られます。

光秀は頭脳派のエリート、秀吉は人情派、人たら
しのたたき上げ。そして光秀は天下の逆臣として
討たれ、秀吉は光秀を踏み台に天下を取ります。

多くの光秀に対するイメージは「裏切者」という
ものですが、いまだに、彼がなぜ信長を暗殺した
のかについての、正確な情報は得られていません。

「信長への恨み説」も仮説にすぎないのです。

むしろ光秀に対して残された記録には、領民思いの
人、奥方を終生愛した心優しき人という記述が多く
残されています。

明智光秀は、信長に仕える前、美濃国の土岐氏に
仕えていました。そこで、後の妻、煕子(ひろこ)と
縁談がまとまります。

そのときのエピソードです。

当時は結婚するまでお互いの顔は知らないのが当
たり前でしたが、光秀は幼い煕子を遠くから見かけ
たことがありました。

青年になり祝言で対面する際に、光秀は花嫁の
「異変」に気がつきます。

何かが違う。このおなごは煕子ではない、光秀は
そう感じました光秀の直感は当たってました。

祝言の席に姿を現わしたのは、煕子本人ではなか
ったのです。ことの真相はこうでした。

嫁入りの数日前、煕子は疱瘡にかかりました。

一命は取りとめましたが、顔に醜い痘痕が残って
しまいました。

このため、煕子の家(妻木家)では、破談にならぬ
よう、顔も仕草もよく似た妹を、煕子として祝言
に送りこんだのです。

結婚当日、光秀はこれを知るとこう言いました。
「たとえ見かけが醜くなっても、私の相手は妹
でなく、姉の煕子である」

そして煕子を迎えに行き、二人は結ばれたといい
ます。
 
それから後、光秀が仕える土岐氏が、斉藤道三に
よってのっとられました。

そのため、光秀は浪人となり、やがて越前の朝倉
義景に仕えるのですが、その間、光秀はひどい貧
乏の中にありました。

その頃、朝倉氏の仲間同士では、持ち回りで会を
準備し、飲んだり、食べたりする習慣がありました。

しかし光秀は、日々の食事も満足にはできない暮ら
し。そこで、煕子は、当時、女の命といわれる自分
の黒髪を、こっそり売って、他の仲間に恥じないも
てなしをしたといいます。

それを知らない光秀は、贅沢なもてなしに驚きました。

光秀は自分の催す会を終え、無事面目を保つことが
できました。

今でいう面目と当時のそれとは比較にならないもの
があります。当時の武士にとっての面目は、命と同
じ重さがあったのです。

光秀は、後で贅沢なもてなしの理由を知り、厳しく
妻を叱りつけました。

が、同時に心中は、いたく感激し、「一生、側室は
持たない」と心に刻み込み、それをその通り実行し
たのです。

これもまた武家の頭首としては、子孫づくりの必要
性から、複数妾の存在が当然のところ、光秀の煕子
に対する情愛が偲ばれます。

煕子は光秀より先に病没しますが、病の床で、主人
の身の回りの世話を妹に依頼しました。

妹も、夫婦の契りは交わさずとも、姉に代わり光秀
の世話に専念したとのことです。

やがて、光秀は信長に仕えます。

近江坂本城主にまでどんどん出世し、そして、本能
寺へと突入していくことになります。 ・・・