松岡浩著『一隅を照らす』に、大阪にある淨信寺(じょ  
うしんじ)というお寺の副住職、西端春枝(にしばた・  
はるえ)さんの話が載っていた。    

西端さんは大正11年生まれ「にもかかわらず美しく、  
頭脳明晰で、しかも明るく楽しいお人柄」と松岡さん
は言う。

確かにインターネットで検索したら20歳は若く見える女
性だった。    

西端さんが商業界の最前線から退いて早40年になる。

後に全国展開をする総合スーパー㈱ニチイの創業者・西
端行雄氏と結婚したのは1946年、終戦の翌年だ。以来、
二人は戦後の高度成長と共に商人道を歩んできた。    

㈱ニチイの前身は、大阪の天神橋筋に出店した、わずか
一坪半の衣料品店「ハトヤ」だった。

戦前、小学校の教員だった夫は商売が下手で、悪戦苦闘の
日々だった。    

ある日の夕方、店先に思いもしない人が立っていた。春枝
さんの実家のお母さんだった。


突然の来訪に春枝さんは戸惑った。

なにせ「店を出した」なんて言ってなかったからだ。さら
にお母さんは、二人が一番恐れていたことを口にした。

「今晩泊めてもらうわ」社会全体がまだまだ貧しい時代だ
ったとはいえ、二人の生活は困窮を極めていた。

親にだけは見られたくないし、見せたくない生活だった。    

日が暮れた頃、お母さんが言った。「春枝、ところでお
便所はどこ?」二人の家に水道も便所もなかった。いつも
近くの天満駅の便所を借りていた。

もう開き直るしかなかった。春枝さんはあっけらかんと、
「お便所ないねん」と言い、咄嗟に近くにあったバケツを
差し出し、「これでしてちょうだい」と言った。     

一瞬たじろいだ表情をしたものの、さすが明治の女である。
お母さんは「こりゃおもしろいね」と言って、音を立てて
用を足した。  

翌朝、お母さんは突然「用事があるので帰る」と言って、
朝ご飯も食べずに若い二人の小さな居住地を後にした。

二人は慌てて靴を履き、天満駅まで送った。当時の天満駅
のホームは長い階段を上っていったところにあった。

階段の下で「それじゃ、無理せんと、西端さんも気をつけ
て…」「お母さんも気をつけて…」、ありふれた別れの言
葉を交わした。   

階段を上っていくお母さんの後ろ姿を見送っていた夫が、
呻(うめ)くような声で言った。  

「春枝、ようく母さんの背中を見ておくんだ。今母さんは
滝のような涙を流しているに違いない」と。  


お母さんは頬を伝わって流れる涙を、二人に気づかれない
ように、手でぬぐうことなく階段を上っていた。

だから一度も振り返らなかった。その背中がすべてを物語
っていた。  

春枝さんは思った。「あの母の後ろ姿をバネにしよう」  

誰にでも「あの日」があると思う。「あの日」があったか
ら今の自分がある、と言えるような、忘れてはいけない
「あの日」が。  

それは、思い出すだけで心のバネになる「あの日」だっ
たり、感謝で心がいっぱいになる「あの日」だったり。

そんな「あの日」があるはずだ。  

そう言えば、「おかん」というロックバンドの『人として』
という楽曲は、今の幸せに繋がった「あの日」のことを歌
っている。 

…あの日あのとき、奇跡とも言える瞬間が無ければ笑い合
うこと無かったよ…
あの日生まれなかったら あの街に住んでなかったら
あの電車に乗ってなかったら あの日が休みじゃなかったら
あの会社じゃなかったら あの学校に行ってなかったら
あの日晴れてなかったら……あの時別れてなかったら
あのとき、『好き』と言ってなかったら
痛み喜び感じずに僕はあなたを知らないままだった

悔しいこと、つらいこと、悲しいことも、いつかそれは
「あの日」になる。「あの日」をどう捉えて、どう生かす
かは、すべて自分で決めることだ。 …







晴れの日もあれば、嵐の日もある。それが私たちの人生です。



ご紹介するのは香川県の80代の方からのお便り。

昼下がりにウトウト居眠りをしたとき、初恋の彼と
コーヒーを飲んでいる夢を見たその理由は・・・。

私は80歳。娘ががんで亡くなってからは一人になり、
ケアハウスに入居している。

新規の入居者から挨拶代わりにと、札幌農学校の
クッキーをいただいて、初恋の人を思い出した。

彼は北海道大学の出身で、酔うとよく「都ぞ弥生の
雲紫に」と唄っていたものだ。

それから自分の部屋で、昼下がりにウトウトと居眠
りをしていると、60年前にタイムスリップした。

初恋の彼と2人でコーヒーを飲んでいる。

突如彼が中座して、帰ってこない。ふられたのかな?
夢のなかで、さめざめと泣いている私……。

どうしてこんな夢を見たのか思い当たった。ケアハ
ウスに初恋の人の面影がある男性がいるからだ。

ジーンズに白シャツで年齢を感じさせず、この年で
ドキドキしてしまう自分に驚く。

髪を整え、うすいお化粧をして、かわいいおばあさ
んを演出。

けれどただ、遠くから見ているだけで、目も合わせ
られない。まるで高校生に戻ったよう!

この恋の結末はいかに。…認知症になって、忘れて
しまうかもしれないけれど。 ……