以前小林修さんの講演記事を掲載した。

脳性まひの小林さんは体が思うように動かせない。言語障害
もあり、思っていることがうまく話せない。その悔しさと60
年以上も付き合ってきた。

そんな小林さんが言う。「健康な体をもって生まれたのに、
その体を悪いことに使って自分の人生を台無しにしている
人がいる。

せっかく不自由ない体で生まれてきたのだから立派に生きて
ほしい」と。健康な人ほど軽く受け流してしまいがちな言葉
だ。

確かに体の一つひとつの機能をどううまく使おうかなど普段
はあまり考えない。

小林さんは幼い頃に受けた機能訓練のおかげで生活自立がで
きるようになり、結婚もし、子どもにも恵まれた。

それも「この体で生きていく」という若き日の決意があった
からだろう。・・・  


元中学教師の腰塚勇人さんは、ある日突然体の機能を失った。

スキーをしていた時の事故で首の骨を折った。2002年3月、
36歳の時だった。  

集中治療室で目が覚めた時、待っていたのは手足が全く動か
ない現実だった。

「人生、終わった」と思った。

教壇では「命の尊さ」を生徒に訴えてきたのに、その時の
正直な気持ちは「死にたい」だった。  

食事も風呂も排泄も看護師の介助なしにはできなくなった。
その屈辱の日々は耐えがたく、毎日死ぬことばかり考えた。  

ある日、優しく声を掛けてきた若い看護師に「おまえに俺の
気持ちが分かるか。偉そうなこと言うな」と口には出さなか
ったが、そんな気持ちでにらみつけた。  

その気持ちが伝わったのか、看護師は「私、今、腰塚さんの
気持ちを考えず言ってしまいました。 ごめんなさい。

でも本気で元気になってもらいたいんです。お願いですから
お手伝いさせてください」、そう言って泣きながら病室を出
ていった。  

その夜、腰塚さんは何時間も泣いた。

「ここに俺の気持ちを分かろうとしてくれている人がいる」と。
 

4月を前に学校側は腰塚さんを3年1組の担任にした。「ふざ
けるな。俺は寝たきりだぞ」と言ったが、見舞いに来た学年主
任の先生は、「戻ってくるまで私が代わりに担任をします。

卒業式では必ず腰塚先生が卒業生の名前を呼んでください」と
言った。  

リハビリで24歳の理学療法士から「腰塚さんの夢は何ですか?」
と聞かれた時も、「ふざけるな。こんな体で夢なんか持てるか」
と思ったが、リハビリの度に聞かれるので、半ばふて腐れて「夢
はもう一度教壇に立つこと」と言った。そして「絶対無理だと思
うけど」と付け加えた。  

リハビリは過酷を極めた。

何回やっても動かない手足。諦めそうになる度に3年1組の生徒
の顔が浮かんだ。「待ってろよ!」と、また奮起した。  

「それまでは『できない理由』ばかり言ってきた。でもあの時、
彼らの存在は『諦めない理由』になった」と当時を振り返る腰塚
さん。

そして事故から4か月後、杖をつきながらではあったが、腰塚さ
んは本当に教壇に戻ってきた。  

昨年12月、宮崎市立赤江中学校で開催された創立70周年記念講演
会に腰塚さんが登壇した。

講演会の後、「70周年記念に石碑を建て、腰塚さんのメッセージ
を刻もう」という話になった。

「坂村真民先生の『念ずれば花開く』という石碑は全国にあるけど、
腰塚さんの石碑はまだどこにもない。ここを第1号にしよう」と
盛り上がった。  

先月、除幕式があり、腰塚さんも駆けつけた。正門近くに建てられ
た石碑には彼のメッセージ「五つの誓い」が刻まれていた。  









晴れの日もあれば、嵐の日もある。それが私たちの人生です。

そういう人生を歩む中で、幸せを掴むにはどうしたらよいの
でしょうか。

すべてが思いどおりに計らわれることを望みながらも、様々
な厳しい状況が襲ってくるのが人生です。

ここで大事なのは、人生の苦難はそれを受け入れてこそ離れ
ることができるし、苦難を受け入れた時、通常では見つめら
れない深い幸せが存在していることに気づけるということです。

随分前ですが、私の講演会でのことです。

一人の女性が私の話を聞きながら、ハンカチを使おうともせ
ずに涙を流し続けている様子が目に留まりました。

「きっと思い当たることでもあるのだろう」とは思っていま
したが、講演が終わり、受講者からの質問の場面になった時、
彼女が手を挙げてこう話し始めたのです。

「私の体の中は洞窟と一緒なのです。

これまで8回手術をして、こんな空っぽの体で、どうして生
きているのかお医者様も不思議でたまらないと言われています。

それなのになぜ、私がこうして元気で生きられるかと申します
と、実は私には知的障碍の20歳の息子がいるからなんです」

彼女はその子が生まれて間もなくご主人と離婚。彼女を必要と
している息子さんのために、今日まで手術を重ねながら死に物
狂いで働いてきたのでした。

勤めを終えて家に帰った彼女を、息子さんはまるで子供のよう
に手足をバタバタさせて喜んで出迎えてくれたといいます。

喜びを満面にした顔を見る度に日々の苦労が吹っ飛ぶというの
です。

「この子を残しては死ねない」

その思いこそが彼女を突き動かし、生かす原動力でした。
幸・不幸というものは客観的に計り知ることはできない。

苦しみの極みを積極的に受け止めて生きていく時、苦しみは
生きる深い喜びをもたらしてくれる、と話しました。

彼女はその話を聞いて、知的障碍の息子を持つ、ボロボロの
体の自分でも、我が子の顔を見て幸せを感じ取ることができ
ることに気づき、これまで味わったことのない深い感動が込
み上げてきたそうです。

息子さんは生まれた時、3年生きればいいと宣告されました。

20歳の誕生日に赤飯を炊いて、ささやかながらお祝いをした
時、息子さんは彼女の顔を見ながら「おかあさん、ありがとう」
と伝えました。

その言葉は単なるお礼ではなく、彼女にはまるで、自分を成人
になる今日まで育ててくれたことへの深い感謝の思いのように
感じられてならなかったといいます。

講演からしばらくして、私のもとに彼女から一通の手紙が届き
ました。

息子さんが亡くなったことを知らせる文面でした。

ところが、そこには悲壮感のようなものは全くありませんでした。
「私は幸せなことに、こうしてまだ生かされております。あの子
の笑顔が、しあわせに生きてゆくようにと呼びかけているのです」

苦しさを受け入れた時、初めて出てくる輝きと幸福感がそこには
ありました。 …