都内の広告代理店に勤める独身女性、鈴木美央(仮名・33歳)。
彼女は、同い年の妻子持ちの園田翔太(仮名・33歳)と現在
不倫関係にある。



 


美央と翔太が急接近していた頃、美央は、会社でさらに追
い込まれていた。  

会社の飲み会は、必ず誰かの悪口大会になる。

飲み会に行かないと自分がその標的になることを美央は
知っていた。  

毎日、夜中まで働き、その先に待っているのはパワハラ
上司との飲み会…美央の精神はもはや崩壊しかかっていた。

美央は決して仕事ができないわけではない。

「上司に“何をやってもダメ”って言われる。だから予定
していたスケジュールより押すんですが、それを全然考慮
してもらえないから、夜中まで働かなくちゃいけなくて、
体力的にも精神的にも追い詰められてましたね。

みんなの前で立たされて、押していてすみませんと言わさ
れる。でも一番嫌だったのは、飲み会でのセクハラ。

私のスカートが短いという話になって、“おれ、見たこと
ないなぁ~”ってパワハラ上司がスカートをペロッとめく
ったんです。

こんな人いるの? と思って頭が一瞬パニックになりました。

目の前で起こったことが信じられなくて。それでも、忘れよ
う忘れようと思って、飲み会では最後まで笑顔を作り続けて
ました」

深酒とセクハラと連日の残業による疲労でボロボロの身体
を引きずって、田園都市線沿線にある自宅マンションに這
うようにして帰り着いた。  

頭痛と吐き気に耐えながらマンションの鍵を開け、部屋の
電気をつけようとスイッチを押したがつかない!仕事に忙
殺される日々で、電気代の支払いを忘れていたため、なん
と電気を止められていたのである。

「あの時は、“やばぁぁぁぁい。電気、つかないよぉぉぉ
ーーー!”って一人で叫んでました。もう、死にたい……
って思いましたね」  

美央は、その場に崩れ落ちた。そして、堰(せき)を切った
ように両の頬から涙が溢れ返った。拭っても拭っても涙がと
めどなく流れた。

美央の中で、溜まりに溜まった感情が一気に弾けた瞬間でも
あった。  

パワハラ上司の陰湿で執拗(しつよう)ないじめ、毎日のよ
うに繰り返されるセクハラ、奴隷のように扱うことを屁とも
思わないブラック企業のやり口、美央はそれでも、職場では
明るく振る舞おうと笑顔で乗り越えてきた。

でも、あたしだっていつも明るくヘラヘラしてるわけじゃな
い……。 「もう限界……」と思った、その時。





「おつかれちゃん!」  

真っ暗な部屋の中で、美央のスマホが1通のLINEを受信した。
うるんだ目をティッシュで拭きながら画面に目をやると、
翔太からのあまりに無邪気なLINEのメッセージだった。  

美央は、翔太にとっさに返信した。「電気が……、電気が
つかないの。電気つかないだけで、本気でつらい……。ど
うしよう」  

思いがけない返事が翔太から返ってくる。

「美央ちゃんの家、溝の口だよね。じゃあ今から溝の口に行
くから、美央ちゃんは東京電力に電話して。復旧するまで2
時間くらいかかるから、その間一緒にいるよ」  

パニックに陥っている美央を落ち着かせようと、これから家
に行くこととすぐ電気がつくことを伝える、翔太。

あまりに優しいその一言に、美央は胸が締めつけられる思い
がした。 「ええっ!? 本当に、今から来てくれるの……?」  

翔太の会社から、自宅までは1時間はかかる。しかも、時間
は夜の11時。それに、翔太が家族と住んでいる家は千葉県に
ある。今から来たら、明らかに終電がなくなってしまう時間
なのに・・・。

美央は半信半疑だった。「でも、その時、ああ、救われたっ
てすごく思いました。私にとって、翔太君は救いの存在なん
だと感じたんです。

翔太君が来てくれるってなったら、突然元気になって、真っ
暗な部屋で化粧し始めている自分がいましたね(笑)」





その日、翔太は、本当に溝の口の駅までやってきた。まる
でなりふり構わず最愛の人に会いに来たかのように。

美央も、駅に着く時間に合わせて駆けつけた。  

改札から現れた翔太は、いつものデートしていたときとは
違っていた。仕事帰りとあって、髪の毛はボサボサで、服
装も冴(さ)えない。けれども、そんな素の翔太を見た瞬
間、美央はタガが外れた……と漠然と思ったという。

もう、戻れない……、私は翔太君が好き! 大好きなんだ! 
と――。

「そのやる気のない格好を見た時に、逆に翔太君に近づけた
って思ったんです。夜中の0時にわざわざ私の家まで来てく
れたんですよ。私たち、繋がってる、もう離れたくないって
感じた。それは翔太君も、同じだったと思う」  

美央は目を潤ませながら、そう言葉を続けた。  

駅前のチェーン居酒屋に入り、美央が上司にセクハラされた
ことを話すと、翔太は美央の上司に対して怒りを露わにした。

「“もうその会社、辞めちゃいなよ。それで美央ちゃんが
この業界を嫌いになるほうが、おれは嫌だよ。

この業界じゃなくて、その会社おかしいよ”ってすごく怒っ
てくれて、ほんとうれしかった」





しかし、夢のような時間は過ぎ去り、美央のもとに非情に
も東電から復旧を告げる電話が鳴る。

少女マンガ好きの美央にとっては、それは、まるでシンデ
レラが灰かぶりに戻った瞬間でもあった。

「東電から電話が来た瞬間、帰らなきゃね、という雰囲気
になったんですが、そこで翔太君が、“許されるならずっ
と一緒にいたい”って言ったんです。

私は黙ってたんですが、喉の奥まで私も……という言葉が
出かかってましたね。

やばいやばい、でも、これって不倫じゃ……って思って、心
がキュンとしました。  

その後、やっぱり不倫という引け目を感じたのか、一度彼は
ちょっと引いたんですよね。そしてこんなメッセージを送っ
てきたんです。

“この前あんなこと言っちゃったけど、美央ちゃんを傷つけ
る結果になるのは分かってる。でも、本当は、美央ちゃんの
こと、すごく惹かれてて、好きなんだよね。

でも、これ以上はほんとまずいと思う”って」LINEを見た瞬間、
美央は大泣きした。

「もし、翔太君と今の奥さんより早く出会っていたらって…
…何度も何度も思って。そしたら、めちゃくちゃ悔しくなった。

もし早く出会えていたら、普通に付き合って、結婚していたか
もしれないって」それからしばらくの間、美央は翔太と連絡を
取らなかった。

一線を越えていないということだけが、二人の逢瀬のいいわけ  

それからおよそ1年後。美央は、例のブラック企業を辞めて、
新天地で働き始めていた。

「“夏が近づいてきて、美央ちゃんと知り合ったことを思い出
した。あの時は、むやみに近づいてごめんね。付き合ってとか
言えない立場だから、あんなこと言うんじゃなかったって。

でも、本当は今も好きだし、会いたいって思う”。突然翔太君
からこんなメッセージが来たんです。

男って、ずるいなーって思ったから、最初はシカトしてたけど、
結局返事しちゃったんですよね」 また2人は懲りずに平日の昼間
にディズニーシーで再会した

。2人とも有休を取っているが、翔太だけは家族に仕事と嘘をつ
いている。

一日中デートを楽しんだ。「海底2万マイル」というアトラクシ
ョンでは、小型潜水艇の形をした乗り物の中で肩を寄せ合うため、
あわやキス寸前までいったが、お互いが自制して堪えたのだという。

二人の心が止めることができなくなっていたのは薄々感づいていた。  

二人に肉体関係はない。その一線を越えていないということだけが、
二人の逢瀬のいいわけだった。

帰り路、翔太は美央を必ず家まで送り届けてくれる。別れ際に、
翔太は美央にこう告げた。

「おれなりに考えてみたんだよね。でも、あの時みたいに、美央
ちゃんを傷つけたくない。今すぐには、子どもも小さいからどう
こうしようとは言えないけど、親としての責任を果たし終えたら、
そのときは本当に好きな人といたい。

それまで待っててほしいと言える立場じゃない。だけど、いつか、
美央ちゃんと結婚したい。50歳になったら結婚しないか」そう言っ
て翔太は美央を抱き寄せてきた。

「あの時は、本当にキュンとしましたね。翔太君がそう言うのを黙
って聞いてた。

プラトニックな不倫という先の見えないゲームで、一つ道が見えた
というのは大きいと思いました。

彼を信じようって。いくつになってもいい、あたしは、翔太君と一
緒になりたい、って」  

美央は、本気で50歳になったら、翔太と結婚できると思っているほ
ど子どもではない。そんな先のことは正直分からない。でも、今は
それで幸せだからいいのだという。





多忙な二人は、現在も平日の昼間に抜け出しては、色々な
場所に遊びに行っている。

翔太は家庭があるため、土日に会うことや、お泊りはでき
ない。

しかし、美央は会社が変わった今でも相変わらずの社畜体質
で、仕事と勉強に打ち込んでいるため、そのほうが都合がいい。  

ディズニーシー、江の島、よみうりランド、映画館。二人は
色んな場所に行った。

「会社さぼっていいかな?ってLINEしたら、“たまにはいい
と思うよ。じゃあおれもさぼる”と返ってくるんです。

“どこ行きたい?今日は美央ちゃんの好きなこと全部しよう”
“とりあえず、小田急に乗って行けるとこまで行こうか”って」

小田急線で終点の江の島まで行き、鎌倉の大仏を見て、海を見
ながらカフェでパンケーキを食べる。砂浜でじゃれ合って、ご
はんを食べて帰る。  

当然ながら、セックスはしない。「セックスしたら、私たちの
関係って、もっとつまんなくなると思うんですよ」  

だからこそ、当初のような燃え上がる感情ではなく、穏やかな
がら、固い絆で結ばれた関係なのだと美央は思っている。

そう、決して簡単な道のりではないだろうが、このままいけば
50歳になったときに、翔太と一緒になることだって決して夢で
はないのだと…。  

不倫についてどう思っているか、美央に聞いてみた。

「いや、奥さんに悪いと思ったことなんて、一度もないですね。
恐らく、私たちみたいな関係のほうが、下手な肉体関係よりも
嫌だろうなとは思いますけど……。

でもやめるつもりは全然ないんです」  

美央の話を聞いていて感じたのは、現実の不倫には、わたしたち
が見過ごしている社会の矛盾や歪みに疲れ果て、SOSを発してい
る女性のはけ口になっている面があるということだ。  

何もかもがうまく行かず、すべてのことに絶望して、誰かにすが
りつきたいと強く思った時、わたしたちは、その救いの手を“誰
かのものになっている”異性に求めるかもしれない。

しかも既婚者は、それを受け止めるだけの精神的な余裕や包容力
を持っていることが多々ある。  

不倫相手とは、そんな社会の生きづらさの中で、渇いた心を潤し
てくれる一縷(いちる)の望みなのかもしれない。 ?…