富良野を舞台にしたドラマでは、拳さんは余命いくばくもないこ
とを隠して、撮影に参加していた。

二〇〇八年。七十三歳。

「風のガーデン」という連続ドラマを書いた。これまた西武斜陽
の賜物である。

プリンスホテルがゴルフ場を閉鎖し、その跡地の利用法を相談さ
れた。その半分を森に還すことを提案し受け入れられてNPO法人
富良野自然塾を創ったのが二〇〇六年七十一歳の時。

フィールドの残りの半分を使ってガーデンを創ろうということに
なった。 そこを舞台に創ったのが「風のガーデン」というドラマ
である。

「風のガーデン」は僕にとって、盟友緒形拳との最後のドラマに
なる。拳さんとは古い付き合いだった。一九六九年「風颱(たいふ
う)とざくろ」以来だから、ほぼ四十年の仲になる。

終末医療に打ちこむ僻地の老医師白鳥貞三(緒形)と、その息子
である女たらしの天才麻酔科医、白鳥貞美(中井貴一)の物語で
ある。

父は息子を勘当しており、息子の娘である孫ルイ(黒木メイサ)と
、その弟の知的障害のある少年岳(神木隆之介)を引きとって亡妻
の遺した風のガーデンで働かせている。

話は麻酔科医である医師貞美が、自分の体に膵臓癌が発症したこと
を発見し、余命の迫ったことを察知して父との和解を図ろうとする
というドラマなのだが、暗い設定のこのドラマが、妙に々清(すが
すが)しく仕上がったのは、緒形、中井という主役二人と、それをと
りまくメイサ、伊藤蘭等のキャスト陣の清潔さに負うところが全く
大きかったと思っている。

実はこのドラマのロケに入る時、拳さんは既に肝臓癌に冒されており、
もはや余命いくばくもないことを覚悟していたことに、僕は全く気づ
いていなかった。

只体調の良くないことは知っており、殆どが富良野の長期ロケで費や
される撮影期間、スタッフは彼の為に一軒家を借りあげてそこで暮ら
せるようにセットしてあげていた。

彼は絵画書道に優れた審美眼と知識を持っており、自らも中川一政氏
に私淑して、味のある書を書く人で、僕は彼に頼み「創」という文字
を書いてもらった。その書の額は、今も僕の書斎に大切に飾ってある。

僕は自分の農園からとりたての野菜を彼のもとへ運び、美術に関する
色々な話をした。 香月泰男の絵や木内克、佐藤忠良の彫刻。様々な
美術の話を語り合った。彼の審美眼は深く博識だった。

ある日僕の車で彼をロケ先に運び、その帰り道に車の中で彼から聞い
た話が忘れられない。

それは末期癌患者役の大滝秀治さんを、拳さん演じる白鳥貞三が診察
に訪れるというシーンだった。

ふいに大滝さんに云われたというのである。

「君! 健康と元気は別物ですからね!」 あの言葉には参ったなァ、
と車の中で拳さんは明るく笑った。

だが僕はその時まだ拳さんが、そういうさし迫った状態にいることに
全く気づいていなかったのだ。大滝さんもそうだったと思う。

あの時の拳さんのあの明るい笑いは何だったろうかとふと思ったのは、
彼の病状を初めて知った時である。

彼の撮影はスタジオでクランクアップした。

この日は死の床の中井貴一と、最後に語り合う父緒形拳さんの最も重い
重要なシーンで、スタジオは最初から異様な緊張に包まれていた。

この日の為に貴一は三日程前から絶食しており、精神的にも多分ぎりぎり
の状態だったと思う。しかも貴一はこの時既に、拳さんの病状を知らされ
ていた筈だ。

一方拳さんも辛そうだった。だがその辛さを表に出さず、いつもの淡々
とした姿を保って、一発本番のロングシーンを微笑をこめて演じきった。

カット! OK! の監督の声がひびいた時、拳さんはソファにストンと
腰を下ろし、小さな声で「終わったァ」と云った。

貴一は貴一で精魂使い果たし、ベッドの中に倒れこんでいた。

あれ程役者が真剣に渡り合い、全神経とエネルギーを使い果たした撮影
現場を見たことがない。正にあの日の二人の役者は、虚と実こめた芝居
という世界で、ある神域に達していたと思う。

すぐその翌日のことだったと思うのだが、打ち上げの席が西麻布で持たれ、
拳さんもにこにこと顔を出していた。だが疲労はさすがにかくし切れず、
三十分もいないで引き揚げた。

又な、と手をふる拳さんの笑顔をみんなで表まで送り出した。

翌朝一番で富良野に帰り、待たせていた演出の仕事に戻った。その翌々日
の夕方電話が入り、拳さんが逝ったという知らせを受けた。

打ち上げからわずか三日目だった。すぐタクシーを呼び新千歳に急行した。
いつも利用する旭川便はもう最終が出た後だったのだ。

辛うじて新千歳からの最終便に間に合い、羽田で待っていてくれたフジテ
レビの車にとび乗って拳さんの死に顔に対面できた。

拳さんの顔はおだやかで、もう向こうの世界の顔になっていた。
二〇〇八年十月五日逝去。

彼は僕より二歳若かった。葬式には出ずに富良野へ帰った。 …








私はある救急病院に勤務する看護師です。

患者さんと旅人のようにすれ違う月日の中で、Fさんという
一青年のことは鮮やかに私の脳裏に残っています。

ある五月の連休の第一夜に、 自殺未遂の患者さんが運ばれて
きました。

大学受験の失敗を苦に、市販の精神安定剤と鎮痛剤とを同時
に飲み下したようです。

発見されたとき、かなり時間が経っており、 昏睡状態で、
脈拍も呼吸も微弱。瞳孔はやや散大して重篤状態でした。

当直医(ドクター)は一通りの処置を済ませてから、母親に
「明日の朝までが峠でしょう」と、 頭を横に振りました。

患者のFさんは21歳の男性。骨格が厚く筋肉質で、身長180㎝。

歯が丈夫で食べ物の好き嫌いがなく、これまでいたって健康
であったといいます。

私たちは、Fさんの生命力を信じ、期待をかけました。母親の
付き添いも好条件に思われました。

子供は母親の胎内に宿ったころからその声に親しみ、聞き分け
てきています。

母親の方から息子さんへ、ふだんのように、出来るだけ頻繁に
語りかけてくださるようお願いしました。

私たちも、彼のベッドを訪れるたびに、耳元で話しかけました。

「こんにちは。Fさん、聞こえますか? 痛いところはありま
せんか?」「Fさん、のどが渇きませんか?」「注射をします
よ。少しがまんしてくださいね」

彼は昏睡のままいくつかの峠を越えました。しかし、これとい
う好転の兆しもなく、一進一退の状態が続きました。

私は出勤すると、真っ先にFさんの病室に足を運び、「がんばっ
て」と握手をしました。

ある日、体をふこうと熱いタオルを 彼の首筋に当てたとき、眉
が動いたのです。ほおをたたいてみると、唇をゆがめて痛そうな
表情を見せました。

そのあくる朝、彼は昏睡から覚めたのでした。入院から8日経っ
ていました。

Fさんは夢うつつに車(配膳車)の通り過ぎる音を聞きました。
次に、はっきりと聞き覚えのある女性の話し声が聞こえてきま
した。

目を開けると、間近に母親の横顔があったといいます。

「お母さん、僕あの看護師さん知っているよ」と、これが彼の第
一声でした。

そのとき、廊下で耳の遠いお年寄りに話しかけていた私は、 母親
に呼ばれてすっ飛んでいったのです。

Fさんは目をやや充血させていましたが、私が手を差し出すとはに
かんで、 しかしはっきりした口調でこう言いました。

「ありがとう看護師さん。僕、はじめからあなたのこと分かってい
ました。毎日待ち遠しかったです。

僕の方でも『こんにちは』と挨拶をしましたが、聞こえましたでし
ょうか」 ・・・