ニッポン放送から独立した「倉本聰」は、「速く! 安く! を
武器に、テレビ界・映画界に乗り込んだ。

がむしゃらに働く30代前半に出会ったのは、“昭和の文豪”阿川
弘之さん。

嵐のような日々だった。大体週に一本のシナリオを書いた。

読売巨人軍の王貞治さんがホームラン数の記録を年々更新しつつ
あったが、こっちは殆どが凡打とはいえ、本数だけは王さんにほ
ぼ並んでいた。

三十代前半。体力だけはあったから、ガムシャラに書きまくった。
只、所詮見習い中、あくまで修業の身。

自分はまだまだシナリオ技術者の段階であって作家といえるのは
はるか先。

速い、安い、うまいを標語にしてとにかく世間に認められようと、
右から来る注文も左から来るものも何でも応じられる“便利な”
ライターに徹しようと思っていた。

その頃。NHKから頼まれた「あひるの学校」(原作は『あひる飛び
なさい』他)

原作者阿川弘之先生と知り合い、何だか妙に気に入っていただいて、
書生のように出入りするようになる。

グルメで知られる先生が、「うちの女房のカレーは絶品だぞ」と自
慢され、御馳走になって、どうだ、意見を云えと仰るので、 「正直
に云うンですか」 「勿論、正直にだ」

「──松竹梅とランク付けすると、竹の中という所かと思います」

先生は思わず吹き出され、その晩クラソウ(先生は僕のことをクラ
ソウと呼ばれた) にこう云われたと岩田豊雄(獅子文六)先生に
早速電話されたらしい。

翌日夫人のもとへ岩田先生から速達が届いた。宛名がふるっていた

「竹中華麗様」 とにかく男っぽく愉しい方で僕はすっかり好きにな
った。だが先生は家庭では激しい暴君で、夫人や娘佐和子ちゃんは
いつも警戒して暮らしていたらしい。

何故か突然怒り出すのよ、その理由がさっぱり判らないから困るの。
本当に瞬間湯沸かし器なんです。

夫人がこぼされるので説明してさしあげた。実は僕も家では瞬間湯沸
かし器なんです。

瞬間湯沸かし器には湯沸かし器のかくれた三段論法というものがあ
ります。コチンと来た時まず抑えます。二度目にコチンと来てこれ
も抑えます。三度目にコチンと来ていきなりフタがぶっとびます。

まわりには何故フタがぶっとんだか判りません。本人にも判らなく
なってる時があります。

娘の佐和子嬢がその後突然大売れに売れたのは、この湯沸かし器の
爆発的エネルギーに永年耐えに耐えて来たものが一挙に噴出した結
果だと思う。

阿川弘之先生のこの内面の爆発が見事に描かれた作品がある。

「舷燈」という中篇だが先生の傑作だと僕は思っている。 この
「舷燈」を僕は脚色し、NHKで放送したことがある。

先生の役を芦田伸介、夫人の役を八千草薫。

NHKに一通の投書があった。阿川さんが夫人をいきなり殴ったのは
許せる。だが、芦田伸介が八千草さんを殴ったのは許せない。 何
となく判っておかしかった。

晩年病床に臥せられた時、お見舞いに行ったらポソリと云われた。
「最近は、阿川佐和子のお父さんって云われるンだ。イヤになっ
ちゃう」

御存じない方に申し添えるが、先生はかの巨匠志賀直哉の最後の
弟子である。

先生の友人である関係から吉行淳之介さんとも親しくなった。

吉行さんは僕の麻布の先輩であったこともあって良くしていただ
いた。吉行さん程ニヒルというか、物に動じなかった人も知らない。

ある日銀座で吉行さんが内田 也裕(ゆうや)の一隊と一緒になり、
場面が何でか険悪になり、裕也についていた安岡力也が「殺して
やろうか!」と吉行さんに凄んだら「殺されてやろうか」と静か
に返したので力也が黙ってしまったという話を聞いた。

吉行さんの恐怖対談に招かれた時、直前に体験した僕の痔の手術
の話になり、ベンツのマークの形に尻の穴を切られたということ
を話したら、眉をひそめてしばらく痛そうにしておられたが、

突然ハッと目をさましたように「あぁびっくりした! フォルク
スワーゲンのマークと勘ちがいしちまった!」と仰った。

いくら何でもワーゲンの形に尻を切られたら一体どうやって痕を
縫うんだ!

阿川先生が相当のお齢になってから、大分離れた男の末っこを作
られたことがある。

芦田伸介が鬼の首をとったように、オイ、阿川があの齢で子供を
作りやがった! 恥ずかしくって人に云えねぇんで、佐和子を説
得してお前の子だっていう話にしろって必死になって口説いてる
そうだ! 何とも嬉しそうに電話をかけてきた。

先生にお祝いの電話をかけたら、必死に弁解して照れていらした。

「山本五十六」「米内光政」など日本の戦中を荘重に書かれていた
昭和の文豪の貫禄とはかけはなれた何とも可愛らしいお姿だった。
とにかく僕にとって大好きな方だった。 …








交通安全週間のある日、母から二枚のプリントを渡されました。

そのプリントは、交通事故についての注意などが書いてあり、
その中には実際にあった話が書いてありました。

それは交通事故により、加害者の立場で亡くなった人の家族の
話でした。

残されたのはお母さんと子供たち、上の子が小学二年生、下の子
が五歳の男の子の兄弟です。

この人たちは、事故の補償などで家もなくなり、土地もなくなり、
住む家もやっとのことで、四畳半のせまい所に住めるようになり
ました。

お母さんは朝6時30分から夜の11時まで働く毎日です。


そんな日が続くある日、お母さんは、三人でお父さんのいる天国
に行くことを考えていました。

(以下、プリントから)
朝、出かけにお兄ちゃんに、置き手紙をした。

「お兄ちゃん、お鍋にお豆がひたしてあります。
 それを煮て、今晩のおかずにしなさい。
 お豆がやわらかくなったら、おしょう油を少し入れなさい」


その日も一日働き、私はほんとうに心身ともに疲れ切ってしまった。
皆で、お父さんのところに行こう。私は睡眠薬を買ってきました。

二人の息子は、粗末なフトンで、丸くころがって眠っていた。
壁の子供たちの絵にちょっと目をやりながら、まくら元に近づいた。
そこにはお兄ちゃんからの手紙があった。

「お母さん、ぼくは、お母さんのてがみにあったように、お豆を
 にました。
 お豆がやわらかくなったとき、おしょう油を入れました。
 でも、けんちゃんにそれをだしたら、お兄ちゃん、お豆、しょ
 っぱくて食べれないよ”と言って、つめたいごはんに、おみず
 をかけて、それをたべただけでねち ゃった。

 お母さん、ほんとうにごめんなさい。
 でもお母さん、ぼくをしんじてください。
 ぼくのにたお豆を一つぶたべてみてください。
 あしたのあさ、ぼくにもういちど、お豆のにかたをおしえて
 ください。
 でかけるまえに、ぼくをおこしてください。
 ぼく、さきにねます。あした、かならずおこしてね。
 お母さん、おやすみなさい。」


目からどっと、涙があふれた。
お兄ちゃんは、あんなに小さいのに、
こんなに一生懸命、生きていてくれたんだ。

私は睡眠薬を捨て、子供たちのまくら元にすわって、
お兄ちゃんの煮てくれたしょっぱい豆を、涙とともに一つぶ一つぶ、
大事に食べました。

このお話を読み終えたとき、私と母の目から、涙が出てきました。
そうして、何度も、何度も、くり返し読みました。

私は、今まで、交通事故は被害者だけが悲しい思いをしていると
思っていましたが、このお話を読んで、加害者側も、悲しくせつ
ない思いをしていることがわかりました。

毎日、毎日、日本のどこかで、こういう子供たちが生まれているの
かと思うと、とてもたまりません。

どうか、お願いです。車を運転するみなさん、交通事故など、絶対
におこさないでください・・・。