鬼谷の教え:この作品は史実をモチーフとしたフィクションです。


鬼谷きこくとは江南の陳国に生まれた人物で、弁論の術を学問として体系化し、 

それを書物に著したのだという。

その活動はいわゆる戦国時代に認められ、記録には数名の男たちが鬼谷の教え

をもとに自らの名を上げたという事実が残されている。 しかし具体的に鬼谷が

どのような人物であったかについては記録に残されていない。

「鬼谷子」に残された彼の言葉によると、尭ぎょうや舜しゅんなどに代表される

古代の聖人は、「口」で人々を統率したのだという。頭の中で状況を理解し、

ひとり得心したとして、何も始まらない。

それを口から言葉にして人々に知らしめることで、統治が成り立つのだと

言うのである。  

至極当然のことを述べているかのように聞こえるが、これが「鬼谷子」

における弁論術の入り口なのだ。鬼谷は言葉を大事に扱い、その言葉が

発せられる「口」を「存在と滅びの門(存亡の門戸)」と称している。

仁者は金銭を軽んじるため、利で誘うことはできない。しかし、金銭

を出させることはできる。勇士は困難な状況を軽んじるため、災いを

話題にして恐れさせることはできない。しかし、危地に赴かせること

はできる。

智者は物事の道理をわきまえているから、ごまかしや嘘で欺くことは

できない。しかし道理を示せば、手柄を立てさせることはできる。  

これらを逆に考えれば、愚者は騙しやすく、未熟な者は恐れさせやすく、

貪欲な者は利で誘いやすいのである……(鬼谷子「謀篇」

すべてにおいて、事象には裏と表がある。これがいわゆる「陰陽」であり、

この考え方から考証を進めれば、人の性格は千差万別といえど対応方法は

それなりにあると鬼谷は言うのである。

鬼谷は陰陽を支配していたため、占いによって人の未来を言い当てること

もできたと言われるが、当時の卜占ぼくせんとは立派な科学であって、

決して詐術的なものではなかったのだ。 鬼谷が私塾を開いて学生に教え

を垂れた地は臨淄りんしである。

臨淄は当時の斉国の都であり、斉は多くの学者を都に招き、自国の発展

に寄与させていた。鬼谷が直接斉国の発展に尽力したという記録は見当た

らないが、彼が育てた学生の中には後世に名を残した者が数名存在する。

その人物たちは、斉国のみならず、中国全体の歴史を左右する存在と

なったのだった。

 


 

龐涓は、魏国の都である大梁だいりょうで、とある男の両脚を切断した。

「臏刑ひんけい」である。

そればかりか、その男の両頬に刺青を施し、二度と人前に出られぬ姿に

したのだという。武将でありながら、日ごろは温厚で篤実な性格だった

彼にしては、かなり思い切った行動であった。  

その相手とは、鬼谷のもとでともに学んだ男であった。その男は、鬼谷

の教えるところをよく理解していて、学業の成績は優秀であった。

しかし一方でその男はあからさまに自身の優良さを自慢するところが

あったので、誰からも好かれていなかった。

おそらくその男は自らの知識が師である鬼谷をも上回ったと感じたのだろう、

あろうことかこれを論破しようと試みたりもした。

ふてぶてしく、偽悪趣味が特徴的な男……龐涓も、確かにその男のことは

平地に乱を起こす手合いの者と思っていて、忌み嫌った。なぜならその男

が近くにいると、平和が乱れるのである。

しかもそれは心の問題だけではなく、肉体の苦痛を伴うこともしばしばあった。

その男は独自の拳法を会得しており、その技術を披露するためだけに他人を

殴ることを厭わなかった。

誰からも求められていないのに、頂点に立とうとする男……

龐涓は、その男を忌み嫌った。

しかし龐涓は、単なる好悪の感情で彼に刑罰を与えたのではない。龐涓は、

その男に危険を感じていたのだ。

なぜならその男は、軍聖と呼ばれるあの孫武の末裔だからである無論確証

はない。その男が自分でそう主張する以外には……。

ただその男は鬼谷の教えを弁論ではなく軍事に転用すると言って憚ら

なかったし、学友たちの前でその理論を実際に披露したこともあった。  

その男が本当に孫武の子孫であるかは、今となってはさほど問題ではない。

要は、実際にその男が自分自身の理論によって兵を動かせるかどうか、

それだけが問題であったのだ。

そして龐涓は、その男の理論が危険だと判断したため、脚を斬ったのだった。

その男は、この事件以降「孫臏そんぴん」と呼ばれることとなった。
 



「甘い」自らの後見役にして魏国の宰相である公叔痤こうしゅくざに仔細

を報告した龐涓は、いきなりそのような論評を下されて言葉につまった。
「は?」 「貴公は甘い、と言っておるのだ。なぜその男を殺さなかったか」

 「…………」  

時代は戦国の世、世界では毎日どこかで戦争が起きている。しかしだから

といって個人的な感情で人を殺すことは、彼にとっては躊躇われた。人の世は、

そこまで腐っていないと龐涓は内心で思っていたのだった。

「貴公はいまや覇権国たる魏の将軍だ。その男が実際に我が国にとって危険

な存在であったとしたら、斬り殺す権限はある」そう言われると、むしろ

そうするべきだったと思わざるを得ない龐涓であった。

このとき彼の思慮深そうな目もとは苦渋によってしかめられ、その印象

を一層引き立たせた。

「私は、もともとその男を好いておりませんでした」龐涓は苦々しい口調

で述懐を始めた。普段は口数が少なく、自らの思いを他人に打ち明ける

ことなどほとんどしてこなかった彼であったが、このときは仕方がない

と思ったのだろう。

「その男……孫臏と言い表しましょう……実に危険な男です。奴は遷都間

もない大梁の様子を探っていました。私は、城内の武器庫で奴を見つけたのです。

奴は、これらの武器で邯鄲かんたんを攻めるのか、と私に問いかけました。

我々の計画は、奴によって見破られてしまいました。……由々しき事態です」  

孫臏は魏国の機密を探っており、まさしくそれを得たのだと龐涓は言う。

それだけでも大罪であることは確かだが、彼の話にはまだ続きがあった。

「さらに奴は私のことを探していた、と言ってきました。……その言葉が

明らかに嘘であることを、私は瞬時に悟ったのです」

龐涓は学生時代に鬼谷の教えを正しく理解できたとは言えず、結果的に

彼は弁士の道をとらず、武将となった。しかしその教えがまったく無駄

となったわけではない。

彼は、人のつく嘘を見破ることが得意であった。 「象比しょうひの術です」  

鬼谷が唱える象比の術とは、相手に繰り返し問いかけることで、その本意

を知ろうとするものである。しかし龐涓が得意とするところは、相手の心

に存在する奥底の真意を知ることで、それを包み隠すための嘘を見極める

ことであった。

一聞しただけでは同じ意味のように思えるが、真意を包み隠す嘘の性質に

よっては、その人物の自分に対する態度がわかるのである。悪意を持って

いるのか、警戒しているのか、それとも敵対するつもりはないがあえて

真実を隠そうとしているのか……それを見極めることこそが、龐涓が得意

としていたことであった。

「二、三の問答をしたのち、奴は私の客分となりたいと言ったのですが、

もともと人の下風に立つような男ではない孫臏がそのようなことを言い

出すのはおかしい。そう感じた私は、奴の本意を探りました。

そこで私は、客として君を養うつもりはないから、推挙してやるので

魏に仕官せよと奴に言いました。

すると奴は即座にその誘いを拒否したのです。曰く、それは困る、と」

 「たったそれだけのことでは、その孫臏とかいう男が嘘をついている

とは言いきれぬ」

「確かに、言葉だけでは公叔さまの仰るとおりです。しかしそのときの

奴の表情、仕草、声のうわずり……それらがすべてを物語っていました。

孫臏の目的は魏国への潜入と調査、そしてこの私を斉国へ寝返らせるこ

とにあったのです」  

術を会得しているとはいえ、傍からはあまりに乱暴な結論づけのように

思われた。しかしそもそも能力とは「陰陽」の「陰」の部分に属するもので、

誰にもわからないところで、自分にしかわからない理由で発動されるものなのだ。

「貴公がそう言うのであれば、確かにその孫臏とかいう男は嘘をついていた。

そして腹の底では大きな陰謀を企てていた、そういうことであろう。

しかし、聞けばその男は兵法家を目指していたというではないか。戦場で

勝つ方法を探していたはずの孫臏が、なぜそのような陰謀によって魏国を

滅ぼそうというのか」  

公叔は納得を示しながらも疑問を呈し、孫臏の心情を慮った。しかし龐涓

はそれに明確な解答を与えたのだ。

「私がそうであるように、孫臏は鬼谷先生の教えをもとに行動しています。

しかも奴は、私などよりよほど優秀な生徒でした。

……鬼谷先生はあらゆる対処術を考案しておりますが、そのどれもが自ら

を安全な位置に置くことを前提としています。つまり、孫臏は自らの兵法

を実現させるために、私に戦場で戦わせることを選びました。万一危機が

迫った際は、自らは隠れ、私を犠牲とするつもりです」  龐涓は確信を

持って答えた。

公叔痤はその老いた顔に驚きの色を浮かべたが、やがて思い直したように言った。 

「そこまで孫臏に危険を感じておきながら、殺さずにおいたことはやはり貴公

の失策だ。この失敗……どうあがいても取り返せぬことになるかもしれぬ」

「しかし、殺すことはありません。私の中で確証があったとしても、実際に

孫臏はまだ具体的な行動を起こしておりませんでした。どんな罪も未遂で

終われば、罰は軽減されるべきでしょう」

公叔はついに眉間にしわを寄せ、荘厳な口調で龐涓に命じた。

「悪意を持つ者に情をかけてどうするのか。疑わしき者は排除するのだ。

いまならまだ間に合う。武器庫に戻って孫臏にとどめを刺せ。息の根を断て。

禍根を残すな」

「……ですが孫臏はひとりではもう歩けもしません。今後生き延びたとして、

何ができるでしょうか。奴の兵法家としての道は閉ざされました。しかも、

今ごろ出血多量で死んでいるかもしれません」

「脚がなくても手がある。頭がある。口もあるのだ。それらがある限り、

兵法を論じ、文字にして残すことも可能だ。命令を伝えることもできる……

その男の未来が完全に閉ざされたわけではない。

とにかく、とどめを刺してくるのだ。殺せ!」  

公叔の強い口調に嫌気がさした龐涓は、不承不承武器庫へと出かけた。  

しかし、孫臏の姿はもうそこになかったのである。