母は86歳のとき、8月6日の平和記念式典で広島市の被爆者代表として献花した。
だが、他の人に比べると大して不幸な目に遭っていない自分が被爆者代表に選ばれたことに母は身を縮めていた。
疎開していた母は被爆を免れ、翌日、親類の安否を尋ねて市内を巡った。それだけのことで高熱下痢脱毛といった症状が現れた。ビルマに赴任していた夫の留守中、二人の幼子を抱えた31歳の母に
長く寝込むことは許されなかったが、やがて起き上がることができた。
自宅は爆心地から3キロ離れ、屋根瓦や窓が吹き飛ばされた程度で済んだ。
血縁者で被爆死したのは父方の叔母二人だけだ。母を育ててくれた実父の内妻は無事だった。
被爆の翌日に市内に出てきた一番の目的は、長兄の家族を探すことにあった。実父はすでになく、本人同様シアトルで生まれた次兄もなく、実父が死んだのち戸籍上の父母となった伯父夫婦もなく、残っている肉親は10歳年上の長兄一人だった。
家業を継いだ長兄は市内の中心地に住んでいたため、蔵、屋敷全てなくしたが、幸いにも妻子を一人として失わなかった。しかし、家の改築、大家族の生活、子沢山の教育、本人の道楽、事業損失の穴埋めなどに、母の相続分として預かっていた土地を無断で売却してしまった。
この一件が発覚して以来、兄妹の交流は疎遠になった。これもまあ戦争被害といえなくもない。母が失った土地は、私が訪れる綾子のマンションの眼下の
ビルの狭間に、偶然とはいえ、よく見える。
母が痩せたのは胃下垂のせい、あとは貧血のため時々失神することがあるくらいで、いつも元気だった。良く通る声で、電話の声は鼓膜にびんびん響き、いつも私は受話器を耳から離した。私の誘いを断ることがなく、よく一緒に外出した。

しかし元気だったのは、この被爆者代表になった頃が最後だった、と今にして思う。
その後は、不整脈、白内障、大腸癌、大動脈解離など入退院を繰り返した。だが最後まで弱音を吐かない人だったから、手術してもすぐ回復する奇跡の人だと誤解していた。

若い頃からずっと気を張って生きてきたのだと思う。

あんなに張りのあった声も90歳で死ぬ前はすっかり嗄れ、拾った骨はぼろぼろだった。


由縁のあるもので今も被爆の跡が目に見えるものといえば、母の実父と次兄が入っている墓だろう。
断絶した家のこの墓石は、火に焼けただれ、欠け落ち、深くえぐられて、墓銘がなければただの石塊である。
墓参りするたびに直したいと母は話していたが、縁遠くなった甥に話を持ち掛けないままで終わった。これは母の遺志だという気持ちが私にもあるが、私自身も従兄弟に会う機会がなくなり、言い出せないままである。