まだ屈託がなかった頃、私は、祖母がアメリカ人と言って友人たちをからかっていた。アメリカ人と聞いてまず連想するのは大抵の人が白人黒人だったから、友人が私を嘘つき呼ばわりするのを面白がったのだ。

明治の末、母の両親はアメリカのシアトルに渡り、親戚が経営していたホテルを手伝った。そこで子供を二人なしたが、ほどなく離婚し、祖母だけがアメリカに残った。
私の母は乳飲み子
のうちに先に帰国させられていたため、生母に育てられた記憶はない。生母は死んだと聞かされて育ったが、生母の男性関係が原因で離婚したのだと口さがない告げ口をする人もいたという。
母が生母について語ったことは数度しかなく、かなりトラウマを抱えていたと思われる。
これから書くことは、すべて私
の記憶に残る断片である。
幼稚園児だった私は、母と夜汽車に乗って横浜に
向かった。同伴した母のいとこ夫婦と話したり、何度も食べたり寝たりした客席の記憶がある。横浜までは一日がかりだったのではなかろうか。
次の記憶は、客船のキャビンの中だ。
私たちが入ると、70歳位だった祖母は、当時の老人には珍しい洋装ですくっと立っていた。祖母と母は立ち尽くしたまま、二言三言言葉を交わし、静かに手を取り合った。母は40歳になってはじめて生母と対面したのだ。

その後動物園でも行ったのか、胴の幅が20センチもあろう大蛇を見た。子供の目だから大きさは当てにならない。
旅館に着くと、私は二階までの急な階段を誰の力も借りずに上がった。すっかりうちとけた祖母やいとこ夫婦、女将までが私を褒めそやして笑い声を上げた。

その夜、ひそかに泣きあっている親子の声を聞いた。大雪の夜だった。
その頃からだろう。私の家では、祖母の送ってくれる珈琲の香りがいつもしていた。白人女性がポーズを取って微笑んでいる赤色の缶には、細挽きのしっとりした豆が入っていた。
祖母から貰ったアメリカ製のコーヒーカップセットは、五十年以上食器棚にぶら下がっていた。母が死ぬ1年余り前、母と長姉は仲違いし、死ぬ直前まで絶交していたが、その原因は、母の知らないうちに、長姉がこのカップを古くさいと捨てたからだ、と母は私に話した。

そんなことが原因とは長姉は知る由もない。最近長姉にこの話をすると、捨ててはいないと言っていた。

祖父と離婚した後、祖母は弁護士をしていた日系人と再婚し、男男女と三人の子を産んだ。卒業式の角帽とマント姿の娘を真ん中にした家族5人の写真、ウェディングドレスや留袖を着た娘と撮った写真などが、今もアルバムに貼ってある。
太平洋戦争当時、三人の子供は二
十代のはずだ。兵役に就いたのか、日本人収容所に入ったのか、全く知らないが、血を分けた母子、兄弟姉妹は敵味方に分かれた。