金鑚御嶽城は、児玉郡神川町渡瀬にある比高約190ⅿの山城です。城は、上武国境武蔵側にあり、金鑚神社御神体の山である御岳山に築かれている。ここは、以前に城郭に詳しい専門家の方がよくその名を出していましたので、一度は訪れてみたいとは城とは思っていました。今回、群馬を訪れる機会があり、そのことを思い出し寄ってみることにしました。

                                      訪城日:2024.2.19 晴れ

 城址へは、関越道本庄児玉ICから国462号を西進し、約11kmに先に大きな鳥居が見えてきます。金鑚神社の壱の鳥居です。ここをくぐって少し進むと左手に駐車場があります。

 拝殿の左手の道が登城路です。二股に分かれますが、右手は約500段ほどの階段の道で、左手は法楽寺跡や屋敷地跡を通るハイキングコースでなだらかな道です。

 わたしは、往路に階段の道で復路にハイキングコースの道で行きました。階段をあまた登るはきつかったですが、この選択がどうもベストと思われます。これから登城される方にお勧めです。

城歴

 文明12年(1480)に安保吉兼が南北朝初めごろに長井斉藤別当実永が築いた城を再築したものと伝わりますが、あまり定かではないようです。

 文明12年頃のこの地域は、かなり緊張した状況だったようです。長く続いた享徳の乱が、ようやっと終末を迎えようとした天明11年に長尾景春が児玉郡で再蜂起して長井六郎の要害に入り、さらに秩父に入っています。そのため、太田道灌は、長井要害の攻略の陣所として金谷談所を予定していた。

 この長井要害の場所が不明ですが、一般的には深谷市の西城ではないかといわれることが多いようですか。ただ、金鑚御嶽城という説もあり、わたしとしてこちらに組みしたいと思うのです。それは、景春が長井要害のあと秩父に入っていますが、金鑚御嶽城のすぐ南に秩父かあり、道灌が陣所とした金谷談所は金鑚御嶽城から北東約3kmほどです。

 このことが、金鑚御嶽城は、15世紀後半の享徳の乱の頃には、存在し長井六郎が城主だったと考えられます。ただ、この時期は城といっても砦程度のもので山上に立て籠もる程度のものだったと思われます。その後、この地域は安保氏が治め、金鑚御嶽城も安保氏が領有して思われます。

 当城が、上武国境境目の城として激しい争奪戦を迎えるのが16世紀の後半です。

①天文21年(1552)1~3月の金鑚御嶽城合戦

関東管領上杉方の安保泰広の守る御嶽城を北条氏康が攻め、攻略した。 安保氏は、北条方の城主として引き続き在城していたと思われます。その後、越後上杉氏に備えた城の改修が北条氏によってなされ、北条氏の番城となり城主平沢政実(城将か?)がおかれていたようです。

②永禄12年(1569)~元亀元年(1570)

 永禄12年の信玄の金鑚御嶽城攻めは、武蔵の氏邦の鉢形城・氏照の滝山城を攻めたのち、相模の北条氏本城の小田原城を包囲して、北条氏を挑発した一連の作戦のもとに起こされ者といえます。なので、落城を目指したものではなかったと。

 元亀元年6月に城主の平沢氏を調略して攻略し、城兵千人を入れて普請を行った。永禄10年に北条・武田両氏が上武国境付近の国分け協定が行われ神流川を境としたので、金鑚御嶽城が武田方になることによって神流川を越えて武蔵に拠点ができたことは、武田にとて重要な戦略的意義があったと考えられます。

③元亀2年12月に甲相同盟がなり、武蔵が北条領となり、金鑚御嶽城が北条方に引き渡された。

 廃城は、定かではありませんが、天正18年の小田原合戦で北条氏が滅んだ後頃ではないかと思われます。

 拝殿から左手の方向に少し進むと道が二手に分かれます。

右手・・・階段の道で鏡岩を見て東郭に至る

左手・・・法楽寺跡を見て東郭に至る

わたしは、右手に進み、主郭に至って、左手の道から帰ってきました。

初めてのコースでしたが、この順路がよかったと思います。

 御嶽の鏡岩で、二股の別れから石碑や石仏を見ながら15分ほどで着きました。

  鏡岩からすぐ上が東郭に着きます。二股から法楽寺跡を通る道もここに至ります。物見の郭といえます。奥に岩山があり、奥宮が鎮座していますいますが、上の主郭を先にしましたので、後程ご紹介します。

  御嶽山山頂の主郭へ向かいます。

 「男坂」「女坂」の表示板があり、連れがあり「女坂」を進みました。「男坂」は、主郭直下の壁がかなりきついようです。ただ、堀切2があり見損ねましたので、帰りにみてきました。

堀切2からの主郭へ登る切岸。きつそうです。

 主郭で、あまり広くはなく、物見所として使ったのではないかと思います。

周囲は急崖で下が見通せませんが、北側が少し良さそうなので、連れを置いて行ってみました。

 急坂を下り少し進むと幅6ⅿ、深さ4ⅿの堀切3があります。

 堀切2の先が2郭ですが、籔っていて内部の様子は定かではありません。ただ、先端部に土塁と虎口があるとのことなので、言ってみました。

  土塁は、ある程度確認できましたが、北東部に降りる虎口はよくわかりませんで、少し窪んだところがそれなのかと思い、写真を撮ってきました。

 帰り際、石積みがこの郭の東に延びる尾根にあることを思い出し行ってみました。

 ありましたね。大きな石を数段積んだ石積みです。長さ10ⅿ以上にわたって見られました。いゃあ~、思い出しよかったです。

 この後、主郭に戻り大手筋と思われる西尾根に行こうとしましたが、落ち込みそうな急崖と藪でこりゃあとてもではない感じて、やめにしました。まぁ~連れもいたこともありましたので。

帰りに東郭先端部にある岩山に寄りました。

 ここに金鑚神社の奥宮の社が祀られていました。

  岩山からの景色は良かったのですが、お天気が良く無くかすんでいたのが残念でした。

振り返ると金鑚御嶽城の御嶽山が見れました。

 

帰りは、法楽寺跡方面の道を下りました。

 道沿いに平場が見られ、宿坊跡の平場が数段見られます。法楽寺は、明治5年の

修験道廃止令により廃寺になりました。

 

 かっては金毘羅山の階段をあまり苦労せずに登りましたが、年を取りましたので、ここはきつかったですね。遺構はあまり見られませんでしたが、主郭まで行かれ、さらに立派な石積を見ただけでも良しとします。

 

参考文献

『関東の名城を歩く 南関東編』 峰岸純夫・齋藤慎一編 吉川弘文館

『古河公方と伊勢宗瑞』 則竹雄一著 吉川弘文館

『享徳の乱』 峰岸純夫著 講談社選書メチエ

『太田道灌と武蔵・相模』 伊藤一美著 戎光祥出版

『信玄の戦略』 柴辻俊六著 中公新書

『武田信玄』 笹本正治著 ミネルヴァ書房

『武田氏年表』 武田氏研究会編 高志書院