沢村城は、矢板市沢にある比高50ⅿほどの丘城です。今回は、城友のノラさんと1泊2日で北栃木の城址を8城訪れてきました。 訪城日:2023.11.9. 晴れ
城址へは、東北道矢板ICを降り、国4号を北上し約5km先の中北交差点を右折して、県道52号に入り約3kmの観音寺を目指します。城址は、その背後にあり、車はお寺の駐車場を借用しました。東側の湯泉神社からも城に入れますし、駐車場もあります。
城歴
沢村城は、那須資隆の七男満隆が沢村に分知されて沢村氏を名乗り、文治3年(1187)に築いたと伝わるようです。しかしながら、鎌倉初期に城郭を構えるということは言われてはいませんので、満隆が構えたのは館なのでしょう。
当城の遺構をみると、戦国盛期のものと考えられますが、城の創築年代、存続年代、築城者、また廃城の経緯など、確かなことはわかりません。ただ、那須氏の内紛時に、当城が使われたことから多少その歴史等が分かるようです。
応永年間(1394~1428)に那須資之(兄)と沢村資重(弟)の兄弟の対立があり、その際に資重が拠った沢村城が資之に攻められ、資重は烏山に逃れたいわれます。この対立が那須家の分裂を呼び、福原城に拠る資之が上那須、烏山城に拠る資重が下那須となった。このことから、沢村城が15世紀初めにはあったことが分かります。
戦国期になると、那須氏は宇都宮氏との対立が激化していきます。沢村城周辺は、宇都宮方の塩谷氏との境目にあたり、那須、塩谷両氏にとっては重要な拠点城郭と思われ、どちらかの勢力によって現遺構が整備されたものと考えられます。
今回は、主郭周辺しかを訪れていませんので、概念図も主郭周辺の図です。
城址碑が、お寺の駐車場の北側にあり「沢村城址 鷲山庭」の文言が書かれています。この地が居館跡で、庭園があったのかな?
右手の木の奥あたりから城に入ります。堀1です。
堀1で、かなり大きな堀切です。ただ藪っています。
堀1に入るとすぐに右手の堀2に入りました。ただ、縄張図がありませんので、さてどうしたものかと…ですが、なかなの堀です。
堀2から左手に入りましたが、まあ~こんな感じですので。城のどこなのかまったくわからずに適当に進みました。かなり広い郭で郭3でした。
郭3の北側に一段高い所に細長い平場があり、郭2でした。ここを東に進みしたら虎口っぽいところに出ましたので、のらさんともども一安心しました。
一安心した虎口Bです。左右は、高2ⅿほどの土塁(?)で、以外に大きい虎口でした。
虎口Bを入ると、堀3が見えました。上巾15ⅿ以上はあると思われる大規模な横堀で、主郭を取り巻いているようです。右手に土橋が見えています。
土橋で、その先に坂虎口の虎口Aがあります。
土橋を渡って振り向きましたら、ちっと虎口Bの東側の土塁が幅広すぎ、これは土塁ではないのではないかと、ノラさんとあれこれ話し合い、「馬出」ではないかと。虎口Bは、土塁でした。これほどの幅広の横堀と土塁の先の馬出です、ものすごい構造だと、驚いた次第です。単独での訪城では、味わえない醍醐味(言い過ぎかなとも)だと、思うことでもありました。
主郭虎口で、坂虎口です。
主郭内部で、かなり広めの郭で、所々に土塁が見られますので、往時にはドメル委は前週していたのかもしれません。北側に高4ⅿほどの土壇が見られますが、櫓台と思われます。北東側は、箒川に落ち込んでいます。
以上ですが、今回の訪城した中では、堀の広さといい、虎口や馬出が明確に見られることからすると、8城廻った中ではベストな城址だったと思いました。矢板市には、ぜひ当城の整備をしていただければと思う次第です。