宇陀松山城は、別名秋山城とも呼ばれ宇陀市大宇陀区春日にある比高120mの山城です。平成18年に国の史跡に指定されています。ここへは、かなり以前(2008.11.25)に訪れてましたが、その時は、奈良の紅葉見物が目的で、大宇陀の古い街並みを見て終わり、お城関係では春日門や西口関門しか見ていませんでした。ですので、再度訪れて宇陀松山城の本丸まで行ってみたいと思っていました。今回は、連れ合いの奈良の仏像めぐりのついでに、ここと高取城を入れ込んで廻ってきました。

                                                                                          訪城日:2020.10.27 晴れ

 城址へは、西名阪国土針ICから国369号を南下して近鉄大阪線榛原駅を過ぎて国399・166号と進み、道の駅「宇陀路大宇陀」を目指します。

  道の駅の向いの橋を渡り、登城口の松山地区まちづくりセンター「千軒舎」へ向かいます。ここは、街歩きの起点になっているところで、お城や町の資料がありますので、ぜひ寄るといいと思います。このセンターの裏手が登城路です。以前の登城路は、大手筋の春日神社からでしたが、災害のため通行禁止になっているようで、センターからの道が現在の登城路のようです。車は、道の駅に停めてもいいようですが、長時間なら向いの郵便局の隣の駐車場にといわれましたので、そこに停めさせていただきました。登城路は、車が十分に通れる道で上には駐車場もありましたが、なぜか車両進入禁止になっています。結構きつい道路でしたが、20分ほどで大手口につきました。

城歴

 説明板には、次のに書かれています。  

「宇陀松山城は、南北朝以来、宇陀郡の有力国秋山氏の本城として築かれました。天正13年(1585)豊臣秀長の大和郡山入部に伴う秋山氏の退去後は、豊臣家配下の大名の居城として、改修・整備が行われ、大和郡山城、高取城と並ぶ大和国支配の拠点となりました。しかし、関ケ原合戦の後入封した福島高晴が、元和元年(1615)「大坂の陣」直後に改易されたことにより、城は取り壊されました。この城割役を担ったのが小堀遠江守正一(遠州)と中坊左近秀正です。」

簡略でわかり易く書かれていますが、多少補足しておきたいと思います。

秋山氏は、宇陀神戸社(阿紀神社)の神主家で興福寺一乗院方の秋山荘の荘官として成長を遂げ、伊勢国司畠山氏から澤氏・芳野氏とともに「和州宇陀三人衆」と称される国人領主です。戦国末期には、松永久秀方に与して国中にまで進出する勢力を誇っています。この秋山氏が本拠としたのが古城山の山頂部に築いた秋山城上城で、居館部の秋山城下城は、古城山南麓の尾根上に設けられていました。創建時期は、定かではないようですが、14世紀半ば頃に築かれ16世紀前半~中頃には中世城郭として完成の段階だったと思われます。

 秋山氏退去後は、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種が入部し、大規模な改修が行われました。現在みられる主郭部の高石垣、枡形虎口、礎石建ち瓦ぶき建物の構築は、文禄元年(1595)に入封した多賀秀種が行ったもののようです。

 福島高晴除封後は、織田信雄が5万石余(宇陀3万石、小幡2万石)で入封し、元禄8年(1695)お家騒動により織田氏が丹波柏原に移封され、幕府領となる。

 上図は、千軒舎でいただいたパンフ『史跡 宇陀松山城跡』にあった図を借用していますが、とてもわかり易い図なので載せておきます。なお、時期は、秋山氏段階は16世紀中頃、前期宇陀松山城段階は福島氏在城期辺りではないかと思われます。

 左の縄張図は、発掘調査が行われる前に村田氏によって描かれた縄張り図です。石垣造りの雀門から南西虎口部、本丸西門下の虎口郭、本丸南東虎口などが明確になってませんが、おおよその縄張構造がわかるので載せておきます。また、右の図は、発掘調査で判明したものに基づいての曲輪配置図です。

 城内の遺構については、-その弐ーで!

 

参考文献

『中世城郭事典Ⅱ』 村田修三編 新人物往来社

パンフ【史跡 宇陀松山城跡】 【宇陀松山 城と町】 宇陀市教育委員会編