会津黒川城といわれてもピンとくる方は、さほど多くはないと思いますが、現在の会津若松城の中世においての名称です。会津若松城については、多くの方のHPやブログなどで紹介され、戊辰戦争での白虎隊の悲劇などでも知られていて、訪れた方も多いと思います。
 わたしも大学が福島で、しかも連れ合いが会津若松市出身ということもあり、度々会津若松市を訪れお城にも幾たびか訪れていました。ただ、天守には、一度も登ったことがなく(笑)、今回内部を見てみようと思い訪れてみました。天守内部の展示物は、会津の歴史を知るにはとても有益なもので、葦名氏にかかわる刀剣や兜が展示され、それなりに楽しめるものでした。(訪城日:2018.5.13 晴れ)
 会津若松城については、数多くの方がかかれていますので、今更書くこともないかと思っていました。ですが、以前に向羽黒山城を訪れブログに載せた際に、その時期の葦名氏の本拠の黒川城や街道筋に関心がいき、あれこれ探りました。多少、自分なりの調べを載せたいと思
い、この記事になりました。
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若松城周辺の地図です。道路は、往時の街道に近似する経路です。
若松城→小山田城 約1.5km
若松城→向羽黒山城 約5km
江戸期の会津五街道は、甲賀町口を大手として、その先の大町札ノ辻を起点にしています。
白河街道(滝沢峠越え)
二本松街道
下野街道
米沢街道
越後街道
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  明治時代初め頃の若松城です。戊辰戦争でかなりの損傷をうけていますが、天守もかろうじて残っていました。明治6年に建物は売りに出され撤去されました。現在は、三ノ丸跡に県立博物館や陸上競技場などがあり、本丸・二ノ丸・北出丸・西出丸などがみられます。
 現在みられる若松城は、天正18年(1590)に会津に入封した蒲生氏郷がこの地にあった葦名氏の黒川城を織豊系の特徴(石垣・天守・瓦など)を持つ城郭に大改修したことに始まります。
 黒川城からどのように若松城に変わっていったのかを見ていきたいと思います。
Ⅰ.葦名時代の黒川城
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 図は、江戸期に書かれたと思われる「葦名時代黒川城市図」です。会津若松市教委の近藤氏は、「城や城下の姿は蒲生時代の絵図とほぼ同様であることから、文献等を基に近世になってから描かれた可能性が考えられ、史料の信ぴょう性には疑問が残る。」としていますが、蘆名時代を知る唯一の史料として貴重なものといえるようです。
 葦名氏が当地に館を構えたのは、七代直盛が至徳元年(1384)で、鶴城と名付け、黒川城とも称した。
※当地が黒川と呼ばれる由来は、南東部の山々が天屋三峰と呼ばれ、修験の一大行場で、温泉の湧き出る東山の地は、古くから羽黒山信仰の拠点の一つでした。こような聖地から盆地に流れ込む川が黒川で、その流域も黒川と呼ばれるようになっと考えられています。
 「黒川城市図」がある程度葦名時代を現しているとしますと、屋敷名から天正初め(1573~)の盛氏の頃ということが推察されるようです。黄〇の八角神社・興徳寺・諏方神社は、現在も同じ場所にあり、このことから城や城下が葦名時代を基本形して拡張整備されていったといえるようです。
 左図は、上図の城内を拡大したもののようで、「会津小山田城明細図」と呼ばれるものです。会津小山田城は、黒川城の別称です。方角を上の絵図と同じにしていますので、文字が逆さになっています。
 葦名氏時代の城下は、車川と押切川が外堀として機能させたようで、その囲まれたところに武家屋敷と町屋が混在としていたようです。
 伊達氏が黒川城に入ったのは、天正17年6月で、翌年8月には秀吉の奥州仕置で会津を没収されていますので、伊達氏としての大幅な改修はなかったようです。
 西側の大手門の南にある北出丸内に西御殿がありますが、政宗暗殺未遂事件(天正18年4月)の場となった所で、伊達氏が葦名氏時代の城をほぼそのままの形で使ったのではないかということが言えるようです。なお、虎口などでの石垣普請などは行ったようです。
「葦名時代黒川城市図」、「会津小山田城明細図」は、『会津若松市史 3』より借用しています。
 
2.蒲生氏時代 黒川城→若松城
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 上図は、元和年間(1615-24)の若松城の古図を基にしています。元和の藩主は、蒲生忠郷で氏郷の孫になります。
 天正18年8月に蒲生氏郷が入封しますが、奥州仕置後に各地で一揆が起り、翌年9月の九戸一揆討伐まで黒川城などの改修には手が回らなかったと思われます。
 氏郷は、文禄元年(1592)に黒川を若松と改め、大規模な改修に着手します。縄張りの基本形は、ほぼ葦名氏時代とさほど変わりはなかったようですが、石垣を本丸の天守台、本丸を囲む多聞櫓台、本丸や北・西馬出の門台に築き、高石垣のうえに金箔瓦を葺いた七層の天守をそびえたたせたようです。なお、図の三ノ丸の石垣は、蒲生忠郷時期の部分的な改修によるもののようです。城下の町割は、車川を外堀に造り替えて総構とし、郭内と呼ばれる内側に上級家臣の屋敷・役所、郭外と呼ばれる外側に下級家臣の屋敷・町屋としています。
 蒲生氏郷が文禄4年(1595)に亡くなり、跡を継いだ秀行は大身家臣の統制が取れず、慶長3年(1598)に下野宇都宮に移封(92万石→18万石)され、代わって越後から上杉景勝(120万石)が入封します。
 上杉氏は、国替え当初から新たに城を築くこと考えであったようで、慶長5年2月に神指城の着工をしています。そのため、若松城の改修はしてないと思われます。
 関ヶ原合戦後、上杉景勝が米沢に移封し、宇都宮より蒲生秀行が復帰します。(60万石)蒲生氏は、3代忠郷が寛永4年(1627)に嫡子がないまま亡くなったため、弟忠知を後嗣として伊予松山(24万石)に移封され、加藤嘉明(40万石)が入封します。
3.加藤氏時代
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 上図は、「正保城絵図」にある若松城下と城です。寛永16年(1639)、嘉明の跡を継いだ明成が大改修を行いましたので、その大改修後の姿が描かれていると思います。
 城下の総構がわかると思います。
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 加藤氏の大改修は、
①慶長11年の地震で傾いた天守の修復
②北と西の出丸を拡張し、総石垣化
③芝土居を石垣に
④大手を東から北に
 これによって、今見られる城の姿になったようです。
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 加藤明成は、寛永20年(1643)に会津騒動で改易となり、山形から保科正之(23万石)で入封します。保科・松平氏は、加藤氏の城を引き継ぎ、大きな改修もなく戊辰戦争を迎えています。
 
参考文献
『東北の名城を歩く 南東北編』 飯村均・室野秀文編 吉川弘文館
『東北近世の胎動』 高橋充編 吉川弘文館
『会津若松市史 3』 会津若松市
『図説 正保城絵図』 千田嘉博編 新人物往来社