国田城は、上越市吉川区国田にある比高210m(標高250m)の山城です。鎌倉時代に吉川吉之進が築城したという言い伝えがあるようですが、城主及び城歴については不明です。ですが、遺構からしますと、戦国期に使われていたと思われます。       訪問日:2012.8.6 晴れ一時雨
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 城址へは、旧吉川町役場前の県道61号を2kmほど南下して、県道241号に左折して入ります。4km強程で城址へ行く林道入口に着きます。そこには案内表示がありますから分かると思います。林道を2.5km行くと案内表示のある登城口に着きます。林道は、舗装されていませんが道幅は普通車でも十分な幅があります。イメージ 2駐車場はありませんが、登城口に空きスペースがあります。
 
 
 
 
 
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 主郭にある国田夢見隊(城址を整備している地元の方々)が設置した説明板があります。イメージ 3
 説明板には、花ヶ前盛明氏作図の「国田城跡実測図」と以下の説明がありました。
「吉川吉之進が築城し、戦国期には青木左衛門が居城したと言われているが真偽の程は不明である。城跡は、主郭を中心に3方向の尾根沿いに延びており山城特有の空堀もしっかり残されて戦国時代をみじかに感じさせている。後世に残し伝えたい誇りある遺跡である。」
イメージ 4 今回の訪城は、上越在住のえいきさんに御案内していただきました。左図の概念図は、夢見隊が整備の一環として佐藤春雄氏に依頼した縄張図の原図を基に描いたものです。北尾根の捉えが、実測図と違っていますが、こちらの方が現状にあっているようです。
 当城は、主郭から派生する3つの尾根上に郭を並べる典型的な山城ですが、東西の尾根上の郭に比べて北尾根の郭群の造りがかなり違う感じがします。この違いが、役割の違いによるものなのかね造成期の違いなどによるものなのか定かではないです。
 
 
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  夢見隊設置の城址案内表示板のある登城口です。表示板には、「国田城散策道-国田城址へ0.5km」と書かれています。概念図の西尾根から行きます。
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 登城口からほぼ平坦な尾根道を少し行きますと、鞍部に着きます。ここに峠道があり、石仏に手を合わせて下って行ったのでしょうか。
イメージ 7 峠道のある鞍部から少し歩きますと、堀切1に着きます。ここからが城域です。上巾8mほどでしっかりと形がよく残っていました。堀切2までは尾根を歩きますが、曲輪という感じではないですね。
 
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 堀切2です。一応堀切としていますが、郭4の切岸(高5~6m)の下に横堀を掘っています。東尾根の防御拠点と考えられます。東尾根筋は緩やかであるため、この城としては厳重な遮断線を設けたものと思われます。
イメージ 13 堀切2から郭4の南の腰郭を行きますと、堀切3に上る道があります。破壊道かとも思ったのですが、坂の右手に平場が設けられていることや、堀切3も土橋があり、ここから主郭と郭4に入ったものと思われます。郭4へは、堀切3からしか入る道がないようです。
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 主郭南下の腰郭から郭2に入る虎口Aへ向かう坂道です。大手が、西尾根と思われますので、南の腰郭が主要部に入る城道として使われたのではないかと考えられます。
 
イメージ 15 郭2の西端から堀切・郭3を撮ったものです。郭3は小郭で削平もさほどではなく、さらに西へ緩やかな尾根道が続いていましので、つい行かなかったのが失敗でした。実測図を見ますと郭があるようで、見落としてしまいました。大手を考えると、西尾根という感じですが、西尾根の郭2と3と小堀切ではいまいち大手として弱い感じがしていました。しかし、郭3の先にもう一つの郭があれば大手口の体裁がつくかな~と。もう一度行かなくてはいけませんかね。
 
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 郭2の二氏は時から主郭うほ麺を撮ったものです。南北15m、東西30mの三角形で、主郭からは5mほと低い位置にあります。虎口は南東端にあり、北尾根へは北東端から連絡しています。イメージ 17
 
 
 
 
 
 
 主郭南下の腰郭から坂虎口Aです。虎口を入ると左手に井戸かあります。標柱右手の木々かおかれている所
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 主郭で、東西45m、南北20m強のおむすび型をしています。土塁は認められませんで、虎口が南東端(郭2より)と東端にあります。井戸が写真標柱の所にあり、明治の一時期麓の薬王神社の宮司さんが住まわれた際に使われたと聞いています。イメージ 9
 
 
 
 主郭東端の堀切3で、土橋がかかり主郭と郭4の虎口にもなっています。奥が郭4です。
 
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 北尾根の主郭北下の郭5を撮ったものです。北尾根の防備の要の郭かと思われますが、いまいち厳しさが見られません。このことは北尾根全体に言えるようで、郭6辺りまで緩やかな幅広の斜面に自然地形の段郭がいくつも見られます。東・西尾根の郭と造りが明確に違うようです。駐屯地であったか、あるいは造りかけて放棄されたものなのか判断がつきにくいです。
イメージ 11 郭6下の平場です。右手の切岸は高5~6mほどあり、尾根幅で続いています。堀切とはいえませんが、切岸防御としてはかなり強力な造りになっています。北尾根にある防御拠点はここのみです。
 
 当城の構造を考えますと、東西の尾根が主要部と思われます。これは、柿崎方面から保倉川流域にぬける峠道が城南西沿いに通り、その監視・制圧の城だったのではないかと思われます。
 
 林道経由にしてもこれほどすんなりと登城口にたどり着ける城跡はありませんし、さらに城址までも平地感覚でいけます。遺構も確かに残っていますので、初心者でも安心していける城址と思います。
 以上、国田城を紹介してきましたが、この夏場にあっても遺構の確認がスムーズにでき他のも、ひとえに地元の方々(夢見隊)のご努力の整備の賜物と感謝しています。