舘山城は、米沢市館山城山・橋向南の比高30mの舌状丘陵先端にある丘城です。築城がいつであるかは定かではありませんが、元亀元年(1570)の元亀の変(中野宗時・牧野久仲の乱)に中野氏に加担した新田四郎義直の居城が舘山城といわれています。確かな史料からしますと、天正12年(1585)輝宗が家督を政宗に譲って舘山に城を築き(13年完成)隠居所としましたが、天正13年輝宗が非業の最期を遂げた。天正15年(1587)に政宗は、自身で地取・縄張りをして築城をはじめ、18年にはほぼ完成したようですが、天正17年(1589)に会津の芦名氏を没落させ本拠を黒川城に移しています。廃城は、天正19年の岩出山移封のころといわれています。以上が一般的な説のようですが、この舘山城が戦国期伊達氏の本拠だったのではないかという説もあり、米沢市教委も発掘調査を行っています。 
 訪城  2011.6.9イメージ 1
 
イメージ 2城址へのアクセスは、米沢城(上杉神社)から国121号を西に3kmに行き、大樽橋を渡ってすぐに舘山発電所への狭い道に入ります。車は、発電所前に空きスペースに停めた方がいいようです。
城山つり堀(写真の左手の建物)の所にも空きスペースがありますが、私有地のようです。図のように行きますと、道路わきに杭に赤テープがあり、そこから山上に登ります。登城口です。
 
 
 
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 登城路を10分弱登りますと、2郭と3郭の間の堀切に出ます。幅約17mの堀切で写真左手の土塁も高5~6mほどあります。尾根からのルートを完全に遮断するぞーという感じですね。堀底は、発電用水路になっています。
 
 
 
 
 
 
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イメージ 5 2郭北西端にある虎口1で、 左上の写真を取った辺りから入ります。堀切底から左手が低い土塁、右手が高い土塁に挟まれた狭い堀状通路を通り、土塁にあたって右手(南方向)に折れて郭に入る構造です。あまり例を見ない造りで、松岡進氏は、この虎口を「食い違い虎口」としています。写真右の土塁の位置からしますと、食い違いに見えますが、手前の土塁に挟まれてた通路を出ますと土塁に囲まれたの空間になっていることから外枡形状の感じがします。
イメージ 6 2郭内部です。東西約60m、南北約0mほどの広さで、西(写真下)と北側に土塁が見られ、イメージ 7南側は、急峻な斜面です。内部は、主郭に行く通路?のみが多少刈られているだけで、あとは藪状態てすね。
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 主郭(右手)と2郭を遮断する規模の大きい空堀です。写真は、空堀の南端から撮ったものですが、この右手の土塁が南端まで届いていないんです。土塁を設けていないのはどうしてなんでしようかね?虎口だったとも思われませんし、後世に何らかのことで削られたか。?です。
 
 
 
 
 
イメージ 9主郭内部で、南北約110m、東西約70mと、かなりの広さがあります。土塁は、西側の空堀沿いを除いて見られません。虎口は、内桝形が二か所見られます。
 
主郭北西端の内桝形の虎口2です。かなり立派な内桝形虎口で、土塁に人頭大の川原石が見られ石垣の裏込石の可能性があるとされています。(米沢市文化財調査報告書)
 
 
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 主郭南中央の虎口3です。城址南下の城下からの城道を登ってきたものと思われます。写真左中央に窪みが見られ、ここから入ったかと思いましたが、どうも、左に折れて坂虎口状の道を通って主郭に入った感じてすね。
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西端の郭3ですが、かなりの規模の堀切がありますが、まったく手入れがされていませんで、遺構を確認するのがようやっとの状態でした。写真は、櫓台跡と思われる高台(左手)と堀切です。
 
この城の評価として、保角氏の言葉を載せておきます。
「置賜地方最大の山城である館山城跡は、対豊臣戦争を意識した、伊達氏の力と築城技術を集めた、南出羽における伊達系城館の最後の城づくりをしめす城館として重要と思われる。」
 
参考文献
「南出羽の城」 保角里志   「戦国期城館群の景観」 松岡進
「戦国大名伊達氏の研究」 小林清治

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2011.7.6付の河北新報に「伊達氏本拠論争に一石? 舘山城に新たな屋敷跡 米沢」という記事が載りました。
 米沢市教委が、2010年より3カ年計画で舘山城跡の発掘調査を行っていたところ、重臣以上の武将が使用したとみられる武家屋敷跡が見つかったということで、伊達氏の本拠が米沢城でなく、舘山城の可能性があるのではないかと考えているようです。
東側の大樽橋からの遠景です。中腹に発電所が見えます。
 
ここからは、小生の妄想になります。
①記事にある「屋敷跡は本丸部分東側の二の丸に当たる川岸で見つかり」とあるのはどこなのか?
この本丸部分東側で、しかも川岸で見つかったと。山上の三つの曲輪の東側が虎口配置などの構造からする主郭と思われますが、山形県中世城館遺跡調査報告書では真ん中の曲輪としています。真ん中の曲輪を本丸としますと、東側の曲輪が二の丸となります。ここから屋敷跡が見つかった?ただ、川岸で見つかったとあると、違うのか?です。2001年の発掘で川に挟まれた平地に、居館などの遺跡が確認されていて、つり堀の辺りなのでしょうか館跡の区画をしめす薬研堀や多数の掘立建物跡が検出されているようです。時期は16C代のようです。
②米沢時代の伊達氏の本拠が米沢城なのか、舘山城なのか?
『性山公治家記録』に元亀の変の米沢火災に、「御城ハ山上ナレバ恙(つつが)ナシ」とあるようです。この「御城」は、当然伊達氏当主の居城する所だと考えられます。それが「山上」にあると。しかも、御城へは「一ノ坂」「ニノ坂」を経ていったようです。一ノ坂は、舘山城跡と米沢城址との中間地点辺りにあります。そうしますと、平城の米沢城より、舘山城の方が地形的に合致しているのではないかと・・・。ただ、米沢城二の丸東堀の発掘で、伊達氏家紋の描かれた漆器が出土していますから、現米沢城の地に何らかの施設があったと思われます。