期間が空いてしまって申し訳ないです
夕暮れ時のオフィスは、空調の低い音だけが響いている
私は手元の設計図に修正を加えながら隣のデスクから刺さるような視線を感じていた
視線の主は一年前の春に新卒で入ってきた後輩、渡邉理佐だ
彼女は容姿端麗、スタイル抜群、仕事は完璧といったまさに絵に書いたような人だ
しかし、「氷の美神」と呼ばれるほど性格はクール
話しかけられても必要最低限で返すし、ましてや会話が続いている人はこの会社でも片手で収まるくらいに見える
そんな鋼のメンタルでパーフェクト人間の彼女になぜか懐かれている
理「…あの、由依さん」
ボソッとつぶやくような声
私が顔をあげると彼女はさっと視線を逸らして暗くなっている同僚のパソコンの画面を凝視した
でも、耳の先がほんのり赤いのは気の所為だろう
由「どうしたの。進捗、遅れてる?」
理「いえ、予定通りです。…そうじゃなくて、コーヒー、淹れました、由依さんの分も」
デスクの端に湯気を立てるマグカップが置かれる
私はコーヒーにこだわりがある訳でもないし、喉が乾いている訳でもない
由「あ、ありがとう。…でも自分の分だけでいいよ、次からは。気を使わせるのも悪いし」
理「…使いたいから、使ってるんです。気にしないでください」
彼女は少しだけ口角を下げて、不満げに自分のデスクに戻って行った
正直、私には彼女が何を考えているのかさっぱり分からない
私は仕事に対して淡々としているタイプだと思ってるし、後輩の面倒見がいいわけでもない
むしろ馴れ合いなどは避けて生きてきて、この会社にも飲みに行くのは一人や二人しかいない
それなのに彼女は隙あらば私のパーソナルエリアに踏み込んでこようとする
土「お疲れ様、由依ちゃん」
森「由依さん、飲みに行きませんか?いつもの居酒屋なんですけど」
同期の土生ちゃんや後輩のひかる達が声をかけてくれる
私は適当な理由をつけて断るのがいつものルーティンだ
由「ごめん、今日は家でゆっくりしたいからまた今度」
土「相変わらずだな〜」
森「たまには行きましょうよ〜」
由「また今度ね」
森「絶対ですよ!」
由「はいはい」
なんかブツブツ言ってるひかる達の背中を見送っていると、背後から音もなく彼女が近づいてきた
理「由依さん、行かないんですね」
由「ん?まあね。人が多いところは疲れるし。渡邉さんは?せっかくだし皆と行けばよかったのに」
こんなことを言うけど実際は彼女も苦手なのかなとか思ったり
そんな彼女は私の言葉を無視してじっと私の顔を見つめてきた
その瞳はさっきまでの仕事モードで鋭かったものと違い、どこか捨てられた子犬のような、湿った熱を帯びていた
理「由依さんが行かないなら、私も行きません」
由「…?そっか」
私はパソコンをシャットダウンし、カバンに荷物を詰める
興味がない、と言えば嘘になるかもしれないけれど、彼女のこの私への対応をどう処理すればいいのか正解が見当たらない
ビルを出ると、予報になかった雨が降り始めていた
由「最悪…」
傘を持ってきていない
走って駅まで行こうかと悩んでいると、隣で彼女が静かに傘を広げた
理「…一本しかありませんけど、駅まで」
由「いいよ、濡れて帰るから。渡邉さんは風邪ひかないように気をつけて帰ってね」
断りを入れて一本踏み出そうとした時、ぐいっと腕を引かれた
驚いて振り返ると、彼女が私の服の袖を強く握りしめていた
理「…嫌です」
由「え?」
理「濡れて帰るなんて許しません。…私が入れたいんです。由依さんを」
彼女の表情は相変わらず読めないけれど、握られた腕から伝わる力は彼女の必死さを物語っていた
由「…分かったから。袖、伸びるでしょ」
私はため息をつきながら彼女の傘の下に体を滑り込ませた
肩が触れ合うほどの距離
彼女は満足したのか、ふっと表情を緩ませた
理「由依さんって、たまにすごく冷たいですよね」
由「自覚はあるよ。だから、渡邉さんも私なんかに構わなきゃいいのに」
私の言葉に彼女は一瞬足を止め、雨音にかき消されそうな小さな声で呟いた
理「…それができれば、苦労しないんです」
私はわざと聞こえないふりをして駅への道を急いだ
隣で傘を差す彼女がどんな瞳で私を見ているのか
それに気づいてしまったら私の、私たちの何かが崩れてしまうような気がして怖かった
「氷の美神」なんて誰が言い出したのか
周りが勝手に作り上げた虚像のせいで、私の本当の声はいつだって喉の奥に渋滞している
設計事務所の騒がしいフロア
私は無機質なモニター見つめるふりをしながら数メートル先に座るその人を盗み見ていた
小林由依さん
私の、たった一つの北極星
出会ったのは一年前
私が新卒でこの会社に入った時だった
淡々と、でも誰よりも真面目に真剣に仕事をする彼女の横顔を見た瞬間、心臓がはねた
それは、理屈も計算も通用しない
暴力的なまでの"一目惚れ"だった
私は不器用なりに必死で動いているつもりだ
興味のない飲み会は全て断り、由依さんが残業をする日は必要のない図面を広げてまで会社に残る
理「…あの、由依さん」
勇気を振り絞って声を出す
一年経っても心臓はうるさいくらいに脈打っているのに、出てくる言葉はぶっきらぼうで可愛げがない
由「どうしたの。進捗、遅れてる?」
由依さんが顔をあげる
その温度の低い視線に射抜かれるたび、私の胸の奥はジンと痺れる
…進捗なんて、一時間前に終わってる
理「いえ、予定通りです。…そうじゃなくて、コーヒー、淹れました。由依さんの分も」
本当は「お疲れ様です、由依さんの好きな銘柄ですよね」なんて気の利いた事を言いたい
でも実際口から出たのは、どこか突き放すような事務的な報告だった
由「あ、ありがとう。…でも自分の分だけでいいよ、次からは。」
由依さんの言葉はいつだって平熱だ
期待も拒絶もない、ただの"先輩"としての返答
それが少しだけ寂しくて、私はわざと不機嫌ですよというのを態度をだして抵抗してしまう
わかってほしい
私は誰にでもコーヒーを淹れるようなお人好しじゃない
由依さんだから淹れたのに
定時を過ぎ、フロアの人口密度が下がる
何人かが由依さんを飲みに誘っている声が聞こえて、私は気が気じゃなかった
もし由依さんが行くと言い出したら、私も無理やり着いて行くしかない
けれど由依さんは、いつものようにさらりと断った
内心でガッツポーズをする
由依さんが誰のものでもない時間が、また数分だけ伸びた
私は由依さんの背後に近づく
理「由依さん、行かないんですね」
もっと優しく言いたいのに、どうしても詰問するような響になってしまう
案の定、由依さんは不思議そうな顔をして「人が多いところは使えるから」と答えた
由「渡邉さんは?せっかくだし皆と行けばよかったのに」
…どうしてそんな事を言うのだろう
由依さんがいない場所に、私が行く価値なんてひとつもないのに
理「由依さんが行かないなら、私も行きません」
本音を混ぜて伝えてみたけれど、由依さんは頭にはてなを浮かべてる
興味を持たれていない
それは痛いほどわかっている
でも、私はその背中を追いかけずにはいられない
ビルの外は嫌なタイミングで雨が降り始めていた
私のカバンの中には折り畳み傘が一本
由依さんは傘を持っていないようで困ったように空を見上げている
今だ、と思った
これは神様がくれたかずすくないチャンスだ
理「…一本しかありませんけど、駅まで」
ぶっきらぼうに差し出す
けれど、由依さんは「いいよ、濡れて帰るから」と私の好意をあっさり辞退しようとした
その瞬間、頭が真っ白になった
一本遠ざかろうとする彼女の袖を、無意識に掴んでいた
理「…嫌です」
由「え?」
自分でも驚くほど声が震えていた
拒絶されるのが怖いんじゃない
由依さんの服が雨に濡れるのも、由依さんの体温が私の知らないところで奪われるのも、耐えられなかった
理「濡れて帰るなんて許しません。…私が入れたいんです。由依さんを」
言い方が重すぎたかもしれないと後悔する
でも、由依さんは少し呆れたような顔をして「分かったから」と私の傘の下に入ってくれた
狭い傘の中、肩と肩が触れ合う
由依さんの石鹸のような、清潔な香りが鼻をくすぐる
心臓の音が雨音よりも大きく響いて、バレてしまうんじゃないかと緊張する
理「由依さんって、たまにすごく冷たいですよね」
わざと意地悪なことを言ってみる
そうでもしないと、泣きそうなくらい嬉しいのを隠せないから
由「自覚はあるよ。だから、渡邉さんも私なんかに構わなきゃいいのに」
由依さんの言葉はどこまでも私を突き放そうとする
でも、私は知っている
由依さんは不器用なだけで、本当は誰よりも優しい事を
理「…それができれば、苦労しないんです」
雨音に紛れて、私は小さく本音を落とした
気づかなくていい
今はまだ、この傘の下で私だけの"先輩"でいてくれるだけでいい
私は、傘を持つ手に少しだけ力を込めて、由依さんの歩幅に合わせてゆっくりと歩き出した
読んでいただきありがとうございます
