2025年1月17日――震災からちょうど30年が経った。
今年は節目の年ということもあり、テレビでは1週間以上前から特集が組まれ、例年以上に震災について考える時間を持つことができた。
そのため、忘れかけていた記憶が蘇り、当時の体験をより鮮明に思い出した。今日は、その記憶を詳細に記録しておきたいと思う。
あの日、運命を分けた朝
震災が起きたのは月曜日の早朝だった。
窓際に寝ていた私は、暗闇の中で突如身体が浮き、布団に叩きつけられるような衝撃を受けた。4階建ての鉄筋コンクリートの団地は外壁にひびが入る程度で倒壊を免れたが、暗闇の中で続く激しい揺れは、立ち上がることすら許さなかった。
布団の中で震えながら耐える中、廊下越しに父の「大丈夫か?」という声が聞こえた。家族全員が無事であることを確認し、少しだけ安堵したものの、恐怖に身体の震えは止まらなかった。
明るくなって家の中を確認すると、寝ていた場所の頭上にガラスのボトルが落ちていたことに気づいた。直前に寝る部屋を変えていなければ、大怪我をしていただろう。
外に目をやると、東の空が真っ黒に染まっていた。当時はその理由がわからなかったが、後に神戸市長田区が火の海になっていたと知った。
混乱の中での家族の安否確認
電気が復旧したのは朝9時頃だった。
テレビをつけると映し出されたのは、阪神高速が横倒しになった光景と、長田の火災の映像。西宮に住む祖母が心配になり何度も電話をかけたが、繋がらない。幸いにも祖母は地震の前週から大阪の親戚宅に滞在しており、無事が確認できたのはその日のうちだった。
友人やクラスメイトの安否も気になり、連絡網を頼りに電話をかけたが、多くは通じず、避難のため不在であることが多かった。
水を求めて夜の学校へ
震災発生当初、水道が復旧するまでの日々は特に厳しいものだった。最初の夜、家族は一縷の望みをかけて学校に向かった。母と姉、そして私の3人で車に乗り込み、暗闇の中で進んだ学校への道。学校なら水が出るかもしれない――そんな淡い期待を抱いていた。
校門は当然閉ざされていたが、非常時だ。母が「大丈夫よ」と静かに言うと、私たちは柵を越えた。静まり返った校庭を横切り、水道の蛇口にたどり着く。恐る恐るひねった蛇口からは、しかし、音だけが虚しく響いた。水は出なかった。
その時の落胆と、暗闇の中で身を寄せ合う心細さは、今も鮮明に覚えている。それでも、あの瞬間には家族で何とかしようという強い連帯感があった。母の覚悟と行動力、そして姉と私の必死な思いは、確かにそこにあった。
給水車が来たのは3日後、水道が復旧したのは1週間後だった。母と姉と共にポリタンクを持ち、水をもらいに行った。
不便な日々と助け合いの記憶
電気はすぐ復旧したが、水道とガスの復旧には時間がかかった。
ガスが使えないため、母はカセットコンロで料理をしてくれた。お風呂も親戚宅を頼る生活が続いたが、どの家でも温かく迎えてくれた。その助けが、どれほど心強かったか分からない。
被災地への往復と祖母の家
学校の再開は震災から2週間後の1月31日。
それまでの間、私は母と共に西宮の祖母の家を確認しに行った。被災地の道路は倒壊した家や陥没で通行できず、有馬を経由して遠回りし、到着するまで5時間以上かかった。
祖母の家は市場の端に位置する長屋で、一部が崩壊していた。震災の影響で住める状態ではなく、残せる家財道具を短時間で運び出す作業を何度も繰り返した。最終的に全壊認定を受け、家は取り壊された。今ではその跡地に商業施設が建っている。
失われた「帰る場所」と新たな想い
震災によって祖母の家を失い、家族が集まる場所もなくなった。
その影響で、私の「田舎」と呼べる場所はなくなり、今は母の家が唯一の拠り所となっている。
日本に帰るのは年に1~2回ほど。母と過ごせる時間は限られている。
あと何回会えるのだろうか。
母には元気で長生きしてほしい――震災から30年経った今、改めてそう強く願う。

