菅谷城跡 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 さる12月3日、埼玉県立嵐山史跡の博物館で開催中の企画展「戦国大名は如何にして軍需を調達したか」を見学してきました。


 小規模ながら、なかなか興味深い展示でしたけれども当然ながら撮影禁止なので、おみやげ画像はございません。かわりといってはアレですが、博物館が所在する菅谷城跡の写真を撮ってきました。


 武蔵嵐山は東武東上線の奥深くに位置します。このあたりまで来ると、電車もレトロなのが走っているのですね。


 ややこしいのですが、史跡としての名称は菅谷館跡で、掲げている幟には菅谷城跡と書かれています。昭和48年(1973年)、国の史跡に指定されたのは菅谷「館」跡でした。位置的には鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡ですからソレで間違いないのですが、いま地表に見えているのは戦国期に菅谷城として改修されたのちの遺構であります。つまり、目に見える状態のものは城跡なのです。


 そう遠くはない場所に小高い岡もあるのですが、なぜか平地に築かれています。南側は都幾川を天然の堀としており、北側は二重土塁を築いており、なかなか堅固な城です。


 土壌は粘土質で水がはけにくく、雨が降ると空堀に水が溜まるようなのを泥田掘というらしいです。


 都幾川方向から見た菅谷城の立体模型で、こちら側が大手口で、二重土塁で仕切られた側が搦め手でした。水色で示されているのは空堀ですが、その一部は泥田堀です。


 二重土塁の内側です。


 本郭を囲む空堀です。


 本郭の虎口に位置する馬出というか突角堡というか、側防のための構造です。側防じゃない、戦国なら横矢掛りというべきですね。
 ここも小田原北条氏の勢力圏に入っておりますが、畝堀とか障子堀とかのような、いかにも小田原流の構造はありませんでした。しかし、縄張りを全体的に見ると実戦的で、堀のめぐらし方などは小田原の流儀だろうということです。


 帰りは池袋行き電車で乗り継ぎなしでした。都心から距離はあるけれど、行きにくい場所ではなかったという印象でした。


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ともあれ、ツタヤ図書館と江戸しぐさは滅ぼすべきです。