常磐松の伝説と西郷隆盛の兎狩り | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 渋谷区と港区の境目くらいに、かつて薩摩藩邸下屋敷がありました。その敷地のなかに、常磐松と呼ばれる老松があったのですが、空襲で焼けたとのことです。推定樹齢400年以上だったとされます。


 松は残っていませんが、幕末に建てられた「常磐松の碑」は残っています。碑文は篆字で難読なので、ギブアップしました。名前の由来は、源義朝の側室で源義経(牛若)の母だった常盤御前が植えたという伝承からで、周辺の地名にもなりました。
 ちょっと待って、常盤御前は1138年生まれの没年不詳なんですが、樹齢400年じゃ幕末まで足りないんですけど……という話題は脇に置いときます。


 常磐松という地名、いまは住居表示から消えてしまいましたが、交番の名前に残っています。また、近くに常磐松小学校もあります。


 上皇さまの弟にあたらせられる常陸宮さまのお住まいが薩摩藩邸下屋敷跡とされていますが、常磐松の碑が建っているのは、その並びにある高級マンションの敷地です。


 藩主や世子などが住むのは上屋敷なので、この下屋敷には滞在しないはずですが、三田の上屋敷が安政江戸地震で被災したため、一時期はここに藩主の島津斉彬が滞在したこともあるそうです。

 明治6年の春から秋口まで、この辺に西郷隆盛が仮住まいしていたようです。隆盛が親類の椎原与右衛門に宛てた書状によると「青山の極田舎に信吾の屋敷御座候間、其宅を借り養生中に御座候間……」とありまして、その青山というのが現在の港区南青山7丁目と推定されていて、常磐松は隣り合う地域です。やがて「信吾の屋敷」は御料地とされ、目黒の西郷山に移転したのが明治7年です。その御料地の一部が現在の常陸宮邸で渋谷区東4丁目に属しますけれど、港区南青山7丁目はすぐ隣です。ということは、薩摩人に縁の深い常磐松の地に、わずかな期間ながら西郷隆盛が住んでいた……らしいんですね。ダイエットの勅命があってのことでした。


 江戸切り絵図だと、薩摩藩下屋敷の向かいに位置する吸江寺は、いまもありました。幕末から移転してないと思うけど、どうなんだろう。


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