『明治天皇紀』第五 p282 明治一四年二月二一日条
二十一日 仁孝天皇例祭、幟仁親王をして代拝せしめたまふ、後月輪陵に於ける祭儀例の如し、
仁孝天皇さまの例祭は、有栖川宮さまの代拝で執行されました。その頃、天皇さまは府中からの帰途についておられました。
午前八時宮内卿輔等を従へて府中を発したまふ、嘉彰親王・貞愛親王・能久親王列外に供奉す、上高井戸村に於て奉送の神奈川県少書記官に謁を賜ひ、正午を過ぐること十五分仮皇居に還幸あらせらる、是の日獲る所の兎・猪肉を親王及び諸臣に頒ち賜ふ、
御無事に仮御所へお戻りになられ、獲った兎や猪を宮様方や臣下にも分配して、めでたしめでたしといったところです。しかし、帰る途中で新宿御苑で御休憩あそばされたという異説もあります。
それは、山岡鉄舟の内弟子小倉鉄樹の口述を、石津寛と牛山栄治が筆記・編纂して成立した『おれの師匠』という本に書いてあります。もとより伝聞ですし、著名人の伝記には粉飾や誇張が混ざることがよくあります。研究者の見解では「意図的な改竄・粉飾はないが編集方針に問題がある」ということだそうで、引用の出典が明らかでないのが史料としての価値を薄めているのは確かです。ただ、本人の死後でないと公にしづらいことも多々あります。そういうことは同時代史料には出て来ません。たとえば、これから御紹介する内容についても、本人の生前だったら、けして公表は許さなかったことと思います。
一
明治十四年に 大帝が八王子へ行幸遊ばされた砌、附近の御殿峠で兎狩を催され、山岡をもお伴をしてをつた。
多数の勢子に狩り立てられて、霜枯の野を兎が逃げ廻る。その中の一匹の兎が、どうしたのか山岡に飛びついた。
山岡が兎を抑へて抱き上げて見ると、毛並の美しい大兎なので、そのまゝ 陛下に献上した。陛下もたいへんそれを愛でさせられて、永く宮中に飼養遊ばされた。
二
帰路新宿御苑の饗餐のお催しがあつて、陛下には一同の労を犒はせられた。
席上 陛下と山岡と何か議論して 陛下の方がお負けになつてしまつた。陛下は陛下の方がお負けになつたのが癪にでもお障りになつたか、席をお立ちになつて山岡の所へお出遊ばし、山岡の耳たぶ掴んで、いやといふほどひねり上げられた。
耳にひねり上げられたのが余程痛かつたと見えて、山岡は家ヘ帰つてもしきりに耳たぶを気にして手を当てながら、
「いたくていけねー、つまらねーことをする……」
といふので奥さんが
「どうかなされましたか。」
と訊くと、新宿御苑で 陛下に耳たぶをひねり上げられたのだといふので、奥さんは笑ひながら「まア」と眼を瞠つた。
「つまらねーことをする。おれに負けたのが口惜しいものだから、つまらねーことをする耳が切れたかと思つた。」
と笑ひもせず口の中で繰り返してゐた。然し奥さんは 陛下と山岡との間に恐れ多きことながら親友以上の親しみのある様子が眼前に浮いて来て、何ともいへず嬉しさに満たされてしまつた。君臣の間が少しも隔てがなくてかほどまでの親しみを持ち得るのでなくちや、ほんとの仕事は出来るものぢやないしまたかうまで親しい間柄は、日常どんなに楽しいことであらうか。
小倉鉄樹 口述/石津寛・牛山英治 編『おれの師匠』春風館 昭和一二年 p198-200
ちょっと眉に唾をつけたくなる逸話ですが、鉄舟は天皇さまを相撲で投げ飛ばしたというような噂もあった人です。それに比べれば、だいぶ穏やかな話ではあります。もっとも、鉄舟は天皇さまと相撲をとったことを明確に否定しています。そのことについては、のちに御紹介することといたしましょう。
新宿御苑は明治三九年の開設とされますが、大庭園が完成して現在のような形になったのが、その年のことです。それ以前は農業試験場だったのが宮内省所管となり、兎狩りの頃には植物御苑と呼ばれる皇室財産でした。そこでは菊の改良など園芸に関する研究がおこなわれていたとのことです。大庭園としての新宿御苑になったのは後のことですが、新宿の植物御苑は当時から新宿御苑とも呼ばれていたのでした。

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