なぜ山々を駆け巡っていたのかというと、明治一四年二月六日に上馬引沢での兎狩りが行なわれた、その翌日に、天皇さまから兎狩りに適した狩場を探してこいといわれていたからです。その様子を、山口は日記に書き記しています。なお、原文のままだと読みづらいので、蛇足かとも思いますが、現代訳をつけます。
六日 晴
今暁、荏原郡辺ヘ 行幸。兎狩被在為ラルヽニ付、御陪乗シ奉ル。御同車中、皇艦(迅鯨艦)落成ノ次第言上ス。且ツ又、兎狩ニテ、勢子ナド勤メシユエ、頗ル疲労シタリ。夜八時 還幸。兎一羽、狸一頭ヲ獲タリ。
明け方から荏原郡あたりへ行幸。(天皇さまが)兎狩りをなさるので、御馬車に同乗し、車中で迅鯨という軍艦が落成したことを御報告した。(仕事は)それだけではなく、兎狩りで勢子になったので、とても疲れた。夜の八時に還幸あそばされた。兎一羽、狸一頭が獲れた。
七日 晴
明八日ヨリ、八王子辺ヘ狩場見分トシテ出張仰付ラレユエ、午後ヨリ参朝堤書記官ト示談ス。午後三時退出。
明日の八日から、八王子あたりへ狩り場を見分するため出張を仰せ付けられたので、午後から参朝して堤書記官(正誼)と相談した。午後三時に退出。
八日 美晴
午前六時参朝。堤書記官、小笠原雑掌長ト共ニ馬車ニテ八王子行ヲ為ス。先ヅ府中ニ至リ、戸長有竹氏ニ面会、同行シテ連光寺村ニ至リ(府中ヲ距ル一里許)向岡辺ヨリ兎狩ノ場所ヲ見分ス。夫ヨリ村路ヲ経テ、日野ニ出テ、又タ馬車ニテ、日暮八王子村ニ着ス。
児玉四郎『明治天皇の御杖』東山書院 昭和五年 p194-195
午前六時出勤。堤書記官と小笠原雑掌長と共に馬車で八王子へ向かう。まず府中に行って、戸長の有竹氏と面会し、同行して連光寺村(府中から一里ばかり)に行き、向ノ岡(地名)あたりから兎狩りの場所を見分した。それから(街道ではなく)村路を(徒歩で)たどって日野に出て、また馬車に乗って、日が暮れた頃に八王子村に着いた。
堤正誼は旧越前藩士で、天保五年一一月六日(1834年12月6日)の生まれですから、このとき満46歳です。のちに貴族院議員になりました。小笠原雑掌長については、まだ調査中です。
上馬引沢村で「頗ル疲労シタ」身体に鞭打って、翌々日には午前六時から八王子行きだというのですから、なかなかの激務です。出張の初日は、現在の多摩市連光寺に位置する向ノ岡(むかいのおか)で、狩り場を見分したあと、日が暮れた頃に八王子に到着したとのことで、おつかれさまと言いたいところですが、まだまだ出張は続きます。

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