障がい児世帯の『昔』と『今』 ① | 【伊丹カモン】とアッキーのおうち

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『発達障がいに関する交流会』【伊丹カモン】に、今年度もぜひお越し下さいね~♪

以前から思っていたことがあります。
私は結婚前は、姫路市に住んでいました。私は姫路で生まれ育ったのです。今でもあの土地は、
私は好きにはなれません。人にもよるでしょうが、とにかく私には暮らしにくかった・・・。

私が行っていた小学校は、軍隊のような学校でした。

運動会や、卒業式の練習も、いつも先生方の大声(罵声と命令)が飛び交っていました。
先生方は、滅多に生徒をほめることはありませんでした。
私はいつも、忘れものもしないし、私語もしていない、勉強もできていたのに、
不真面目な一部の男子達のおかげで、いつも先生方から全体が大声で叱責されていました。

私はいつもうんざりしていました。先生は、不真面目な男子を周囲が注意しないことを、
『なぜ注意しないの!』とよく全体に叱責していました。『私、こんなにちゃんとしているのに・・。
あんな暴力的な男子に、注意できるわけないやん・・。』 私は小学校が、大嫌いでした。
先生方は『こんなにこんなに、注意しているのに、なんでちゃんとできないんだ!』
嘆いていました。かなり生徒達に求めるものが高く、完璧主義だったようです。

1000人規模の生徒たちが、一人残らず先生方の思い通りになるわけがありません。当時は誰も
発達障害なんて知らないので『何とかこいつらを、ちゃんとしよう。』という発想から、
先生方は罵声と命令しかしつけの仕方を知らなかったようで、6年間、ずっとそれが続きました。

私が小学生の頃、1階に『なかよし学級』がありました。完全隔離でした。中で何を
しているのかもわからなかった。先生方から、障がい児達の紹介も、彼らについて
語られることも、交流も全くありませんでした。つまり6年間、徹底的に完全無視でした。

まるで自衛隊員養成学校のような小学校で、ある日体育館で『人権映画』が上映されました。
【小学校のなかよし学級の知的障害児も、毎日がんばっています。いじめをしてはいけません。】
という内容だったと思います。私はその映画を見て、違和感を感じました。「いじめをするなと
言っても、全く接する機会もないのに・・。」その映画の後も、障がい児達との交流は全くなく、
卒業となりました。なぜか校庭でのクラスの卒業写真を撮る時だけ、重度知的障害の女の子が、
一緒に入らされて並びました。彼女とは、みんな全く何の思い出もないのに、今までさも
一緒に交流してきたように並ぶのは、学校側の欺瞞を感じ、私は何か嫌でした・・。

こんな学校で子供たちが感じるのは、どんなことでしょうか。
『やっぱり障害児・者って、世の中にとって、邪魔者なんだ。』としか思えないのでは
ないでしょうか。子ども達が障害児・者について、関心を持つことは、難しくなります。
そして、ほとんどの子供たちは障害児・者と交流のないまま、彼らは大人になります。

それから、重度知的障害のその女の子は、大人になっても、母親を拘束し続けているようにみえました。
授産施設だと思いますが、彼女が40才になった今でも、毎日母親と電車に乗って、施設に通っています。
母親の送迎が、一生必要なのです。他の人は誰もしてくれないので、母親がするしかないのです。
私は何回も電車でそれを見ているので『障害児なんか生まれたら、母親は一生を潰されるよね。』
と思っていました。近所の人は、ダウン症の子どもが生まれたら、子ども時代から入所施設に入れていて
一緒に住んでいなかったし、それが当然という時代でした。でも、自分には、全く関係のないことだと
思っていました。

 <長くなったので続く>>>