以前から思っていたことがあります。
私は結婚前は、姫路市に住んでいました。私は姫路で生まれ育ったのです。今でもあの土地は、
私は好きにはなれません。人にもよるでしょうが、とにかく私には暮らしにくかった・・・。
先生方は、滅多に生徒をほめることはありませんでした。
私はいつも、忘れものもしないし、私語もしていない、勉強もできていたのに、
不真面目な一部の男子達のおかげで、いつも先生方から全体が大声で叱責されていました。
私は結婚前は、姫路市に住んでいました。私は姫路で生まれ育ったのです。今でもあの土地は、
私は好きにはなれません。人にもよるでしょうが、とにかく私には暮らしにくかった・・・。
私が行っていた小学校は、軍隊のような学校でした。
運動会や、卒業式の練習も、いつも先生方の大声(罵声と命令)が飛び交っていました。先生方は、滅多に生徒をほめることはありませんでした。
私はいつも、忘れものもしないし、私語もしていない、勉強もできていたのに、
不真面目な一部の男子達のおかげで、いつも先生方から全体が大声で叱責されていました。
私はいつもうんざりしていました。先生は、不真面目な男子を周囲が注意しないことを、
『なぜ注意しないの!』とよく全体に叱責していました。『私、こんなにちゃんとしているのに・・。
あんな暴力的な男子に、注意できるわけないやん・・。』 私は小学校が、大嫌いでした。
先生方は『こんなにこんなに、注意しているのに、なんでちゃんとできないんだ!』と
嘆いていました。かなり生徒達に求めるものが高く、完璧主義だったようです。
『なぜ注意しないの!』とよく全体に叱責していました。『私、こんなにちゃんとしているのに・・。
あんな暴力的な男子に、注意できるわけないやん・・。』 私は小学校が、大嫌いでした。
先生方は『こんなにこんなに、注意しているのに、なんでちゃんとできないんだ!』と
嘆いていました。かなり生徒達に求めるものが高く、完璧主義だったようです。
1000人規模の生徒たちが、一人残らず先生方の思い通りになるわけがありません。当時は誰も
発達障害なんて知らないので『何とかこいつらを、ちゃんとしよう。』という発想から、
先生方は罵声と命令しかしつけの仕方を知らなかったようで、6年間、ずっとそれが続きました。
発達障害なんて知らないので『何とかこいつらを、ちゃんとしよう。』という発想から、
先生方は罵声と命令しかしつけの仕方を知らなかったようで、6年間、ずっとそれが続きました。
私が小学生の頃、1階に『なかよし学級』がありました。完全隔離でした。中で何を
しているのかもわからなかった。先生方から、障がい児達の紹介も、彼らについて
語られることも、交流も全くありませんでした。つまり6年間、徹底的に完全無視でした。
しているのかもわからなかった。先生方から、障がい児達の紹介も、彼らについて
語られることも、交流も全くありませんでした。つまり6年間、徹底的に完全無視でした。
まるで自衛隊員養成学校のような小学校で、ある日体育館で『人権映画』が上映されました。
【小学校のなかよし学級の知的障害児も、毎日がんばっています。いじめをしてはいけません。】
という内容だったと思います。私はその映画を見て、違和感を感じました。「いじめをするなと
言っても、全く接する機会もないのに・・。」その映画の後も、障がい児達との交流は全くなく、
卒業となりました。なぜか校庭でのクラスの卒業写真を撮る時だけ、重度知的障害の女の子が、
一緒に入らされて並びました。彼女とは、みんな全く何の思い出もないのに、今までさも
一緒に交流してきたように並ぶのは、学校側の欺瞞を感じ、私は何か嫌でした・・。
【小学校のなかよし学級の知的障害児も、毎日がんばっています。いじめをしてはいけません。】
という内容だったと思います。私はその映画を見て、違和感を感じました。「いじめをするなと
言っても、全く接する機会もないのに・・。」その映画の後も、障がい児達との交流は全くなく、
卒業となりました。なぜか校庭でのクラスの卒業写真を撮る時だけ、重度知的障害の女の子が、
一緒に入らされて並びました。彼女とは、みんな全く何の思い出もないのに、今までさも
一緒に交流してきたように並ぶのは、学校側の欺瞞を感じ、私は何か嫌でした・・。
こんな学校で子供たちが感じるのは、どんなことでしょうか。
『やっぱり障害児・者って、世の中にとって、邪魔者なんだ。』としか思えないのでは
ないでしょうか。子ども達が障害児・者について、関心を持つことは、難しくなります。
そして、ほとんどの子供たちは障害児・者と交流のないまま、彼らは大人になります。
『やっぱり障害児・者って、世の中にとって、邪魔者なんだ。』としか思えないのでは
ないでしょうか。子ども達が障害児・者について、関心を持つことは、難しくなります。
そして、ほとんどの子供たちは障害児・者と交流のないまま、彼らは大人になります。
それから、重度知的障害のその女の子は、大人になっても、母親を拘束し続けているようにみえました。
授産施設だと思いますが、彼女が40才になった今でも、毎日母親と電車に乗って、施設に通っています。
母親の送迎が、一生必要なのです。他の人は誰もしてくれないので、母親がするしかないのです。
私は何回も電車でそれを見ているので『障害児なんか生まれたら、母親は一生を潰されるよね。』
と思っていました。近所の人は、ダウン症の子どもが生まれたら、子ども時代から入所施設に入れていて
一緒に住んでいなかったし、それが当然という時代でした。でも、自分には、全く関係のないことだと
思っていました。
授産施設だと思いますが、彼女が40才になった今でも、毎日母親と電車に乗って、施設に通っています。
母親の送迎が、一生必要なのです。他の人は誰もしてくれないので、母親がするしかないのです。
私は何回も電車でそれを見ているので『障害児なんか生まれたら、母親は一生を潰されるよね。』
と思っていました。近所の人は、ダウン症の子どもが生まれたら、子ども時代から入所施設に入れていて
一緒に住んでいなかったし、それが当然という時代でした。でも、自分には、全く関係のないことだと
思っていました。
<長くなったので続く>>>