近頃は神社での参拝作法などについてテレビや雑誌にもしばしば取り上げられているからか、

境内でも「ニ礼二拍手一礼」とか「参道の中央は歩いてはいけない」などという声が聞こえてきます。

 

手水についても然りでしたが、新型コロナウィルスが物を介して感染すると言われてから、

手水舎の柄杓 や 拝殿の鈴緒 を撤去する神社が多く、今では多くの神社で手水舎に柄杓を見かけません。

 

手水鉢に張った水に花を浮かべた「花手水」というのが広まったのもコロナの影響ですね。

 

さて、手水の作法についても、さまざまなところで紹介されているので、

「まず右手を~」とか「柄杓に口をつけない」とかはご存じの方が多いのですが、

肝心の「なぜ手水を行うのか」ということについては、今ひとつお分かりでない方もいらっしゃるように思います。

 

神域に入る前、神様の大前に参る前に、身を清めるのが手水を行う意味です。

本来は、潔斎(けっさい)とか禊(みそぎ)と言って、

湯に浸かったり、全身に冷水を浴びたりして清めることを行います。

しかし、潔斎や禊となると非常に大仰になり大変なので、簡略化して 手 と 口 を清めることで、

全身を清めたことにするのが 手水 なのです。

 

そして、清める対象は、物理的な面、つまり自分の身体だけではありません。

心身ともに清める という意味もあわせ持っていたりします。

 

伊太祁曽神社の手水舎

上の写真は、当神社の手水舎に掲げられている 扁額 です。

「心洗」と書いてありますが、これは右から「せんしん」と読みます。

この手水舎で心を洗う という意味ですね。

こんなところからも、手水は単なる 手洗い、口すすぎ ではないことをご理解下さい。

 

時折、祈願の受付を済ませて案内までの待ち時間にお手洗いにいかれる方がいます。

待合室に戻ってこられた際に、こちらが「もう一度お手水をお願いします」と言いますと、

「先程、トイレで手を洗ってきましたが」とお答えになる方がいます。

 

また、手水の作法を貼ってありますが、それを見ながら「口も清めなくてはいけませんか?」と

問い返してくる方がいます。

 

手水は、単なる 手洗い、口すすぎ ではありません。

己の全身を清め、心も清浄にするために行います。

ですから、トイレの後の手洗いとは全くもって別のものとして、再度お手水をお願いするのです。