名裁きをした証拠がほとんど残っていないのに…
「遠山の金さん」が時代劇のヒーローになれた本当の理由
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遠山景元の肖像画(写真=千葉県立中央博物館大多喜城分館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
時代劇「遠山の金さん」でおなじみの遠山景元(とおやまかげもと)は、桜吹雪の入れ墨を見せて悪人を裁く名奉行として描かれる。ところが、景元が実際に下した判例はほとんど残っておらず、若い頃の遊び人伝説も別の奉行との混同から生まれた可能性が高いという。なぜ景元は時代劇のヒーローになったのか。江戸文化風俗研究家・小林明さんの著書『江戸町奉行列伝』(星海社新書)より、名奉行伝説が生まれた背景を紹介する――。
■遊び人だが面倒見がよく、皆から慕われた
お白洲(江戸時代の法廷)で悪人が、
「お縄になった(捕まった)理由がわかりません。悪いことは何もしていませんぜ」
としらを切る。そこでお奉行様が、
「とぼけるな、この桜吹雪を見やがれ」
と片肌脱いで入れ墨をあらわにすると、悪人は仰天してひれ伏す――勧善懲悪の時代劇『遠山の金さん』のクライマックスである。
昭和の時代、『遠山の金さん』は大人気のテレビ番組だった。遊び人だが面倒見がよく、皆から慕われ、腕っ節も強い町人「金さん」が、上半身の右側に彫った桜吹雪のタトゥーをあらわにして悪人たちを懲らしめる。
金さんに倒された悪党たちが奉行所に捕まり裁判を受けると、「捕まる覚えはない」と、知らないふりをする。そこへお奉行様が入れ墨を見せ、「知らねぇとはいわせねぇぞ」と、啖呵を切る。
自分たちを叩きのめしたあのやくざ者が、実は町奉行だったことを目の当たりにし、悪人たちは観念する。金さんの決まり文句でドラマは幕を閉じる。
「これにて一件落着」
筆者が小・中学生の頃は、毎週放映されていた時代劇だった。最も記憶にあるのは四代目・中村梅之助さんが扮した金さんだ。他にも四代目・市川段四郎さん、杉良太郎さん、高橋英樹さん、松方弘樹さん、松平健さんら、時代劇のスターたちが演じた。
■複雑な家庭に生まれ、放蕩に走る
金さんは一九世紀に実在した江戸町奉行で、名前を遠山左衛門尉(さえもんのじょう)景元といった。左衛門尉とは、古くは源義経も就いていた武士の官職の一つである。
天保十一年(一八四〇)から北町奉行、弘化二年(一八四五)から南町奉行を歴任した人物だった。通称は「金四郎」。これが“金さん”の由来である。
誕生は寛政五年(一七九三)。父は景晋(かげみち)という名だったが、元の姓は永井。つまり、遠山家に養子に入った人物だった。
金四郎が生まれたのち、養父に実の子が生まれた。自分の子(金四郎)より、養父の実子の方が後継ぎにはふさわしい――そう考えた景晋は養父の実子を自分の養子とし、金四郎の存在をしばらく秘匿していた。
その後、実子が早世したため、結局は金四郎が後継ぎとなる複雑な家庭だった。
江戸時代の武士は子が生まれないと他家から養子をとるのが普通だったため、こうしたケースも起き得たのである。
ともあれ、ややこしい環境に育ったことが、金さんの伝説を形作るのにひと役買う。すなわち複雑な家庭ゆえに若い頃は家から出され、庶民と一緒に町屋に住み、放蕩に走ったあげく、身体に入れ墨も彫ってしまった、と。
実際、景元が歴史の舞台に登場するのは文政八年(一八二五)、江戸城西の丸小納戸役に就いてからで、それ以前は不明なのである。
このとき三十三歳。西の丸小納戸役は将軍の世継(のちの十二代将軍・徳川家慶)に近侍する役職だった。
■優秀な父・景晋により飛躍した遠山家
三十三歳まで何をしていたかわからないゆえに、無頼の青年期を過ごし、若気の至りで入れ墨まで彫ったという人物像がひとり歩きしてしまったのだろう。だが、実は父親の景晋はとても優秀な人物だった。寛政六年(一七九四)、昌平坂学問所で実施された学問吟味で最優秀成績を収めたという記録がある。また、長崎奉行、作事奉行、勘定奉行を歴任している。
特に長崎奉行を務めたことから外交能力に長けており、文化元年(一八〇四)にロシア外交官、ニコライ・レザノフが蝦夷地(北海道)に来航した際には、交渉役を担っている。
遠山家の家禄は五〇〇石。幕閣の中枢に就く家格ではなく、実際にそれまでの遠山家には幕府の要職に就く者がいなかった。だが、景晋以降は重用されるようになる。
息子の景元にも優れた資質はあったが、父親の七光も大きく、それによって地位も高まっていった。景晋は文政十二年(一八二九)、景元に家督を譲って隠居。天保八年(一八三七)に死去した。
■桜吹雪ではなく女の生首という証言も
景元が身体に彫っていたという入れ墨については、文献にも記載されている。例えば一八四〇年代半ばに刊行された『浮世の有様』に、こうある。
「若い頃につき合っていた博打うちの影響で彫った入れ墨が見苦しかった」
景元が南町奉行を務めていた最後の二年だけ部下だった佐久間長敬も、回顧録『江戸町奉行事蹟問答』で「(景元は)入れ墨をしていた」と証言している。佐久間は幕末から維新にかけて奉行所の与力だった人物で、かつ一時は景元の身近な存在だっただけに、この証言は一定の信ぴょう性がある。
ただし、『浮世の有様』とほぼ同じ内容なので、当時流布していた噂を耳にして再録しただけ、という可能性も捨てきれない。
幕末の軍艦奉行・木村芥舟(きむらかいしゅう)の随筆『黄梁一夢(こうりょういちむ)』にも、「腕に花紋を黥する(げいする=入れ墨があった)」――という一文がある。また、明治に入って流布した景元の伝記『帰雲子伝(きうんしでん)』も記す。
「芝居小屋で喧嘩騒ぎを起こした金四郎が腕まくりすると、女の生首の入れ墨があった」
ここでは入れ墨が桜吹雪ではなく女の生首にすり替わっているが、いずれにせよ佐久間の証言も含めて伝聞ばかりの可能性が高い。
■人違いでも「伝説」が広まったワケ
筆者は、入れ墨の噂は眉唾だと思う。
そもそも若い頃に放蕩の限りを尽くしていたという逸話さえ、真偽は怪しい。放蕩説は景元が吉原の遊女の罪を裁く際、同席していた遊郭の遣り手(遊女を管理・監督していた年配の女性)が遊び人だった若き日の景元の顔なじみで、「あら、金さん」と、白洲で声をかけたというエピソードが元になっている。
しかし、これは安永八年(一七七九)刊の随筆『はつか草』に、能勢頼一にまつわる裏話として載っている。能勢は延享元年(一七四四)に北町奉行に就いた男で、吉原の遊女たちを取り調べたとき、顔見知りだった能勢がお奉行様として現れたので、「誰かと思ったら甚さまじゃない」と、大笑いされたと記されている。
「甚さま」とは、能勢の通称「甚四郎」のことだ。
何のことはない、甚四郎と景元の通称「金四郎」が混同され、景元の逸話にすり替わっただけである。
こうした入れ墨に関する伝説は、すでに幕末にはフェイクとしてある程度は認識されていたようだ。しかし、明治時代に入ると、景元が再び注目を集めるようになった。原因を作ったのは、前述の木村芥舟だった。
木村は幕末の軍艦奉行であり、勝海舟と福沢諭吉が乗船したことで知られる咸臨丸の提督である。幕末の英傑の一人といって良い。
その木村が、とにかく景元を称賛しているのである。
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「左衛門尉景元、天保十一年町奉行に任す。性闊達、明断の聞こえあり。この人、少かりし(若かりし)時遊蕩、常に無頼の徒と交わりし故、能く下情に通じ、市僧(諸国を托鉢修行する僧)博徒の事に至るまで諳んずる(知っている)所也」
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■将軍も認めた裁きの腕前
景元の裁きが明断なのは若い日の放蕩や、博徒といった無頼の徒らとの交流によって、世情に通じたところから来ている――だからこそ名奉行なのだと、手放しの褒めぶりだ。
勝や福沢にゆかりある人物がここまで絶賛しているのだから、遠山の金さんとは気さくで立派なお奉行様だったに違いないと、景元の人物像を伝説化するのにひと役買ったのではないか。著者には、そう見えるのである。
一方、三十三歳で幕政の表舞台に登場してからの躍進は目覚ましく、小普請・作事・勘定といった奉行職を歴任した。これらの役職は出世コースである。
四十八歳で江戸北町奉行に就任すると、これまで見てきた入れ墨などの曖昧な風聞と異なる、史実と見ても良い話を残している。
天保十二年(一八四一)の「公事上聴(くじじょうちょう)」だ。
これは将軍臨席のもとで模擬裁判を行ない、その評価を受けるというイベントだった。景元は養子縁組でもめている二組の夫婦の訴訟を見事に裁き、将軍から「(二組の)利害を調整した巧者」と、直々に“お褒めの詞”を賜ったという。
実は景元が実際に下した判例は、ほとんど残っていない。江戸幕府には『御仕置例類集』という裁判記録があるが、景元が北・南町奉行を務めていた時期のものは焼失してしまっているためである。『公事上聴』はシミュレーションとはいえ、景元が将軍から絶賛された貴重な裁判記録だ。
この他、北町奉行の職にいた初期の頃、ときの老中・水野忠邦(みずのただくに)に提出した意見書が確認できる。
■下情に通じた奉行の決断
奉行所の重要な仕事の一つに、私娼の取り締まりがあった。私娼は公認の遊郭・吉原以外の場所で売春する女性たちで、岡場所といわれる地区などを仕事場としていた。歴代の町奉行たちもたびたび摘発しており、景元も百人超の女を捕縛したという。大半は十代の貧しい少女で、罰は吉原に預けて三年間、無償で働かせるのが慣例だったという。
景元はこれでは不憫と思ったらしい。刑を一年短縮したいと水野へ申し出た。そうなると実質二年だが、丸二年という意味ではなく、二年以内であればいい――つまり数日、吉原で働くだけでも可という案を出したのである。
意見書には、こうあった。
「この者(私娼)たちは身を削って親兄弟に金を送っています。三年もただ働きをさせては、家族がさらに困窮を極めるでしょう。仁恵(思いやりと恵み)をもって吟味していただきたい」
水野はこの意見を採用し、吉原での働きを十日ほどに減免した。
下層階級にあえぐ者たちの境遇には情状酌量の余地あり、それが景元の考えだった。のちに“遠山の金さん”として親しまれたのは、こうした下情(下々の実情)への配慮が民衆にも伝わっていたからだろう。
■罷免されてなお、大衆の楽しみを守った
景元はもともと水野忠邦に引き立てられ、町奉行になった。しかし、水野が主導する「天保の改革」が町人たちに無理を強いるため、次第に反発するようになった。
天保の改革の骨子は経済政策をはじめ、農村から江戸へ流入した人々を強制的に帰郷させる「人返し令」、江戸・大坂周辺の大名の領地を幕府の直轄地とする「上知令(あげちれい)」などが主だが、庶民にとって厳しかったのは寄席の撤廃、歌舞伎小屋の所替(辺鄙な場所へ移転させる)、床見世(屋台などの露天商)の禁止など、娯楽を取り上げる規制だった。
遊興はぜいたくであると断じた奢侈禁止令である。人情派の景元は、寄席と芝居の廃止は芸人の失業を生むと反論した。
その結果、水野と対立し、また水野の側近の策謀もあって、北町奉行を罷免される。景元の更迭に暗躍した水野の側近が、遠山の金さんのライバルとして悪評高い鳥居耀蔵(とりいようぞう)である。
なお、のちに『遠山の金さん』が歌舞伎の演目として大人気を博すのは、このとき景元が芝居小屋の存続に尽力したことに、小屋の関係者が称賛・感謝の意を表した結果でもあったろう。
おまけ(笑)














