近江国の甲賀は、湖南エリアの南端にある。それより南は、三重県の伊賀国だ。伊賀は古琵琶湖の名残りをとどめ、盆地地形をなす。いずれにも"忍者伝説"があるが、これはかなり怪しいと私は思っている。そのことは本ブログの第180話「甲賀ならびに日野紀行」で述べた。

 湖南エリアは琵琶湖の縁から少しずつ高度が上がり、甲賀の南端ではかなりの標高になっている。よって甲賀から見ると伊賀は、遥かな下方だ。甲賀びとである旧友Kは、「俺らは伊賀に対して差別意識がある」と語っていた。自然地理的要因のみならず、文化格差も含めてだ。

 彼は本来、差別的な人間ではない。これは半ば冗談で言ったことだろう。だが人間というアニマルは、差別意識を払拭するのが至難なのだ。中華古代の思想家:荀子が唱えた"性悪説"は、一理ありなのである。

 荀子は儒家だが、"性善説"を唱える先達の孟子と違ってリアリズムの精神がある。それから派生した韓非子の法家思想もだ。だがそれが始皇帝の宰相李斯により実践されると、カルトに変身した。思想というのは面白い。

 ちなみに道家にもリアリズムの精神がある。そのことを私は司馬遼太郎の「項羽と劉邦」(1979)により気づかさせられた。この長い物語の終わり頃に、作者は印象的な一文を記している。「張良には、物事はかくあらねばならぬという儒教精神はすこしもない」…というのがそれだ。張良(あざなは子房)のこのリアリズム精神が、主君劉邦をして天下をとらしめたのである。

 話が脱線した。斯様な中華古代思想比較は、別稿にて論じたい。つまりKは、リアリストだったのだ。私もまあそうであり、それで比較的気が合ったのだろう。そのKとは長いこと会ってない。いまどうしているかと思う。もしか鬼籍に入ったのでは?…と、案ずる。

 ま、それはさておき(これは最近の私の口癖です)…私は最近、また甲賀に行った。2020年10月1日にだ。前回は同年の8月19日で、この時は甲賀北部の水口(みなくち)町を訪れた。此度は南部の甲南町高嶺地区だ。前述のように甲賀は南部が北部よりも標高が高い。つまりより山国だが、むろん山間に農耕地も集落もある。そしてこの集落にて、ニホンテンが人家天井裏に侵入しているという情報が得られたのだ。

 それでこの地の山林内はどうなっているかを見に行った。ニホンテンにとっての住環境と、食物事情が気になったのだ。なお前回の水口紀行は単独行だったが、此度は同行者ありである。

 その日はまず新名神を甲南PAで降り、一般道を南東に向かう。そして8km程先が甲南町高嶺だ。車から下り、自然観察をする。森の外は畑地と草地で、草地には収穫後の水田も含まれる。歩きながら、「動くものが目に入らない」ことに気づいた。このあたりは昆虫や、両生類・爬虫類がプアなのだ。

 舗装道の下には、流れが極めて緩やかな細い水路があった。水は殆ど腐りかけている。その縁にニホンイタチの足跡…は無かったが、アライグマのそれがあった(写真1)。太い塩ビの放水管の上に、泥足が残っているのだ。とりあえずこのアニマルは、此の地にいる。

 


【写真①】

 其処からさほど離れていない舗装道上に、やはりアライグマの糞があった(写真2)。棒で崩して中を見てみると、オリザの種子(つまり米)が数粒出て来た。ということはつまり、葉の部分もオリザである。「へえ~~、アライグマはオリザ(稲)の実(米)も食うんだ!」と、少しく感動した。

 

【写真②】

 確認してはいないが、イタチやテンの類にはその芸当は出来まい。果実に含まれる単糖(グルコースやフルクトース)は栄養に出来ても、米や団栗の主成分である多糖(デンプン等)は消化・吸収出来ないと思う。消化酵素であるアミラーゼやマルターゼを、持たないのではあるまいか?。

 ニホンテン(イタチ科)とハクビシン(ジャコウネコ科)はイチョウの種子(銀杏)を食う。タヌキ(イヌ科)もだ。だがいずれもその外果皮のみを消化・吸収し、殻に包まれた(内部に豊富なデンプンのある)部分はそのまま糞として排泄する。これらのアニマル(の上顎前臼歯&下顎臼歯)は裂肉歯だから、銀杏の硬い殻を割るのは困難だろう。だがそれだけではなくて、「そもそもデンプンを消化出来ない」ような気もする。

 犬(イヌ科)が銀杏を食うかどうかは知らないが、御飯を主食とすることが可能らしい。ツキノワグマ(クマ科)の秋の主食は、団栗(ブナやミズナラ等の種子)である。このアニマルの下顎臼歯は、Carnivoraにしては珍しく「すり潰し型」なのだ。

 このあと、林道沿いに森の中に入る。その内はスギとヒノキが主で、いずれも細い。そして落葉高木はあまり見当たらなぬ。ただ林縁部には、低木の落葉樹が多少ある。林床に笹は少ない。

 ニホンテンは、樹洞を住居にするという言い伝えがある。だがそれがありそうな巨木は、全く見当たらぬ。食物条件も悪い(と思われる)。カキ、ビワ、アケビ等の、ニホンテンが好む果実を付ける木が見当たらない。

 ただ、ふと気づいた。初めに訪れた収穫後水田の傍らに、イチジクの木が一本あったのだ(写真3)。その実は未だ小さく緑色だったが、この植物の実が熟すのは晩秋だ(街には栽培物が早くも出回ってますが)。だから冬季のニホンテンの餌になりうる。兵庫や京都でのことだが、ニホンテンの糞からはイチジクの(極めて微小な)種子が出る。その果実はかなり大きく、そして一本の木にかなり沢山の実が付くのである。

 

【写真③】

 栄養豊かと言われるイチジクは、西アジア原産だ。つまり日本を含む東アジアでは、外来種である。日本に渡来したのはかなり古い(1600年代初)が、何処かエキゾチックな雰囲気がある。中華中世文学(元代成立)「西遊記」に登場する人参果は、この植物がモデルではないかと思ったりする。

 ちなみにニホンイタチも、稀にイチジクを食べるようだ。そのことはデータとしては確認されておらずで、目撃例だ(写真は無し)。目撃したのは私ではない。動物写真家の大島和男だ。ニホンイタチはニホンテンと違って木に登らない。彼が目撃したニホンイタチが食べていたのは、落果である。

 このあと森を抜けて、農地に出た。だがそれは進行方向の左手だけで、右手は未だ森である。此処で漸くニホンイタチの糞を発見した(写真4ー6)。あまり造りがしっかりしてない物置きの傍に、水が流れていない溝がある。その溝の蓋たるコンクリート板の上にだ。

 

【写真④】

 

【写真⑤】

 

                                                                                             

【写真⑥】

 

 かなり細いので、おそらく雌だ。それが近接して3個ある。内容物は昆虫だが、分類の詳細は分からない。脱糞者がこの物置で休息している可能性は大だが、繁殖巣を営むにはやや粗末である。

 此処からさほど遠くない距離にもう一つ物置きがある(写真7)。幾分頑丈なこの物置(の板壁)にある爪跡(写真8)は、ニホンテンかアライグマのものだろう。いずれにせよ、此処で休息している可能性は大だ。繁殖巣を営めるかどうかは、分からない。

 

【写真⑦】

 

【写真⑧】


 頑丈な方の物置きの横に、森に入る小径がある。その奥にはイノシシの足跡があった(写真9)。イノシシも米を食うので、このあたりの水田は何処も柵が張り巡らされている。だが足跡の主たるイノシシは、ミミズが目当てと思われる。泥地が掘り返されているからだ。だが、どれだけ腹が満たされただろうか?。最近減っているのは昆虫やカエルだけではない。土壌動物であるミミズも、減少している気配があるのだ。

 

【写真⑨】

 林床では、フユイチゴが蕾を付けていた(写真10)。この木苺は、文字通り冬に実を成熟させる。だがその種子がニホンテンの糞から出てくることは、今のところ確認出来ていない。とりあえずこの地にはあまり無いので、依存度は低いだろう。最適採食説からしても…。

 

【写真⑩】

 更に車を先に進めると、右手側も開けて来る。そして高嶺地区から出て、同じ甲南町の下馬杉地区に至る(写真11)。この地区の草地は高嶺と違い、昆虫(主にバッタ類)と蛙(主にトノサマガエル)が多数飛び跳ねている。ニホンイタチにとっての食物事情は良い筈だ。だが残念ながら、その生活痕跡を発見することは出来なかった。

 

【写真⑪】

 車で更に西に移動した。下馬杉から出て伊賀に入る。このあたりの標高は、甲賀と変わらない。だが進行方向左手(南)はかなりの急傾斜で、伊賀盆地に向けて落ち込んでいる。伊賀コリドールロードと呼ばれるこの舗装道は、対向車と全く出会わない。道の両側の森にはスギ・ヒノキは少なく、コナラを主とする落葉広葉樹林だ。だがどの木も細く、巨木は全く見当たらない。

 御斎峠(写真12)に着いた。この峠はギリギリ伊賀だが、僅かに北に下ると甲賀市(の信楽町多羅尾地区)だ。

 

【写真⑫】

 "神君(徳川家康)伊賀越え"の謂われはあるものの、半世紀前まではそんなこと(殆ど)誰も知らなかった筈だ。この史実と峠の名が(多少とも)知られるようになったのは、司馬遼太郎の功績だろう。彼のデビュー作「梟の城」は、御斎峠に始まって御斎峠で終わるのである。

 現実の御斎峠は、別段ロマンチックなものではない。舗装道の傍らに、石碑が立っているだけだ。そして伊賀盆地の眺めも良くない。だが少し北(の甲賀側?)には峠道より標高が高い地点があり、展望台になっている。其処からの眺めはなかなか良い(写真12)。ほぼ真下に上野城が在り、右手には月ヶ瀬丘陵(此処は奈良県)が鎮座する。左手遠方には青山高原が見える。

 展望台から下りてそのあたりの森を歩く。此処の林床はびっしり笹で覆われている。高木は細いコナラが多いが(写真13)、モミに似た高木もある(写真14)。後者の正確な種名は不明だ。

 

【写真⑬】

 

【写真⑭】

 イノシシ生け捕り用の、檻があった(写真15)。餌は糠だが、「そんなもので捕れるんかいな?」と疑う。あるいは真面目に捕る気は無いのかもしれないが、それで良いのだ。害獣イノシシとはいえ、殲滅させる必要な無い。人跡稀な御斎峠では、生存が許されて良い筈である。

 

【写真⑮】

 更にその近くの泥上には、シカの足跡があった(写真16)。ヤブヘビイチゴもあり、赤い果実を付けている(写真17)。フユイチゴよりもrareなこの草苺は、年中五月雨的に実を付けるのだ。

 

【写真⑯】

【写真⑰】

 道を北に下って、多羅尾地区(甲賀市信楽町)に至る。戦国末期に多羅尾道可が蟠踞した頃の雰囲気は無く、限界集落だ。此処を過ぎると、道沿いに大戸川(上流)が流れていた。その流れに平行に、シカの足跡が刻まれていた。だがニホンイタチの生活痕跡は、発見出来なかった。

 やがて瀬田川に合流する大戸川は、中流では田上山の山麓を潤す。本ブログの初期で紹介したように、田上山はニホンイタチのパラダイスだ。だが近年は、その生活痕跡に減少傾向が認められる。上流域がこの調子だと、田上山も危ないかもしれない。私の見聞の範囲では、「ニホンイタチはピンチ」なのである。

 

 


 

ベルこのブログの筆者・渡辺茂樹が顧問として在籍するアスワットのHPベル

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