司馬遼太郎の「街道をゆく・近江散歩」(1984)の中に、滋賀県の景観条例についての解説がある。その条例は、「建築物の新築、増改築、外観の模様替え、木竹の伐採をする時は、知事に届け出ることを義務付けられる」というものだ。素晴らしい条例だが、惜しむらくは罰則が無い。つまり、「"知事の指導・助言"を無視してもいわばかまわない」のである。

 それゆえ大戸川ダム建設は強行された。実施計画事業調査が始まったのは1977年で、1989年には工事が始まる。やがて国交省は「本体工事は凍結する」と声明したが、"準備工事"は粛々と進められた。大坂城の外濠が埋められたようなものだ。そして遂に内濠も埋められる。2019年4月に三日月知事は、ダム計画そのものを「容認する」と発表したのだ。

 建設予定地内の里山集落:大鳥居は、既に廃村になっている。だが人間たちと共生関係にあった(筈の)ニホンイタチは、未だ頑張って生きている。その地も、遂に水の底に沈むのだ。

 福岡県南部:背振山地内の五箇山ダムも、同じ事例だ。此処も里山でニホンイタチの楽園だったが、既にほぼ水没した。そしていずれの環境破壊にも、私は環境アセスメント調査メンバーとして関わっている。ニホンイタチの研究者でありながら、その棲息地破壊に荷担したのだ。「私に抵抗の術は無かった」と顧みつつ、忸怩たる思いがある。

 司馬遼太郎のこの著は、他にも多様な内容が含まれている。中でも環境問題を論じた最後の3章は、とりわけ印象深い。「安土城趾と琵琶湖」「ケケス」「浜の真砂」が、そのタイトルだ。ちなみにケケスとはオオヨシキリのことである。その鳴声のギョギョシが、古の近江びとにはケケスと聞こえたのだという。

 「安土城趾と琵琶湖」では、城の天守台趾から眺める300haの陸地が干拓地であることが紹介される。そして司馬は、「海を干拓するならまだしも、人の生命を養う内陸淡水湖を干拓し水面積を減らしていまうなど、信じがたいふるまいのようにおもわれた」と呟く。

 



 司馬は更に、以下のように言う。

 

しかし、干拓地としては、もともとむりな土地だった。なにしろ、干拓したとはいえ、湖の水面より干拓地の地面が、中心部において3メートルもひくい。

集中豪雨がふればもとの湖にもどってしまう。また常時、たえず揚水機で水を湖にほうり出していなければならないという地面で、いわば陸地が重力によってやっと存在している。ここに入植した農家は、216戸だった。

しかし皮肉なことに、そのころから、各地で農・山村の過疎化現象がはじまり、農業人口が減りはじめた。なぜ湖を犠牲にしてまで農地を造成しなければならなかったか、後世であるこんにち、日本の変化のはげしさにぼう然とする思いがある。


 司馬はこの章の末で「日夜、琵琶湖は汚されつづけている。あるいは、県のレベルをこえて琵琶湖保全についての国民運動が起きなければどうにもならない問題なのかもしれない」と嘆く。そして、その12年後に彼は死んだ。それから更に24年の歳月が流れたが、司馬が望んだ国民運動は起こる気配が無い。それどころか、「日本民族は自滅の道を歩み続けている」ような気がしてならぬ。

 次の章の「ケケス」では、司馬は再び以下のように慨嘆する。

 

この国をゆたかにしてきたのは、琵琶湖である。それをうずめて干拓するというのは、

ーーさらに農地を。

という、人間の欲深さから出ている。農地を、というのが表むきの名分にすぎないことは、こんにち誰もが知っている。実際には、

ーーさらに土木を。

ということである。

 

 

 前出の「罰則規定はなく、"知事の指導助言"を無視してもいわばかまわない」という箴言は、このあとに登場する。そしてそのあと「ヨシキリとアシの違い」についての考察があり、以下の述にて章を締めている。
 

カラスやトンビは人を警戒する。だから人が通る水路には、そういう乱暴な鳥が近づいて来ないことをケケスは知っていて、むしろ人が通る水路のよしの中に棲んで虫を食ったり巣をつくったりする、という。人の声がすると追ってくるというのは親近感のあらわれなのか領域(テリトリー)の主張なのかよくわからないが、少なくともケケスにとって、人間は自分たちをトンビから守ってくれる大型動物だと思っていることはたしからしい。


 そして最終章の「浜の真砂」。此処ではカイツブリについての以下の述が印象的だ。

 

 

よく知られているように、この水鳥の古典な名称は、鳰(にお)である。

水にくぐるのが上手な上に、水面にうかんだまま眠ったりもする。本来、水辺の民だった日本人は、鳰が大好きだった。鳰が眠っているのをみて、「鳰の浮寝」などといい、またよしのあいだにつくる巣を見て「鳰の浮巣」などとよび、わが身のよるべなき境涯にたとえたりしてきた。

琵琶湖にはとりわけ鳰が多かった。


 だが1984年冬のこの日に、司馬遼太郎は鳰を目撃出来なかった。それでしかたなく(?)、「芭蕉と鳰」について述べている。以下のようにだ。

 
琵琶湖とその湖畔を、文学史上、たれよりも愛したかに思われる芭蕉は、しばしば水面のよしの原を舟で分け入った。この場合、五月雨で水かさの増した湖で、鳰たちが浮巣をどのようにしているか、そのことに滑稽さを感じてこの句をつくったようである。

 そのとき彼が詠んだ句は以下のものだ。

五月雨に鳰の浮巣を見にゆかむ

 鳰は冬の季題だが、芭蕉はそういうことに拘る教条主義者ではなかったのである。そして別の季節には、以下の句を詠んでいる。

かくれけり師走の海のかいつぶり

四方より花吹入(ふきいれ)て鳰の海 

 私は短歌は詠むが、俳句は作らない。鑑賞の趣味も薄い。だが芭蕉のこの3句は「なかなか良い」と思う。正岡子規の作品のように「自己愛が鼻につく」ことが無いからだ。

 そのあと、「琵琶湖をどぶ化する方向へ押しやった」野崎県政(1966ー74)を批判し、当時(1984)の武村県政には一定程度の評価を与えている。嘉田県政(2006ー14)の時代には、司馬は既に此の世にいなかった。そして「真砂の尽きる世にならぬよう祈らざるをえない」の一文にて、「近江散歩」は終わる。

 以下は、いま(2020)のこと。今年の6月に私は千葉県の印旛沼に行き、地元の鳥類学者長谷川博のナビでその東縁を散歩した。主目的はニホンイタチの棲息状況調査だったが、そのとき長谷川から興味ある事実を聞かされた。印旛沼では最近、カイツブリが激減しているという。そして斯様な減少傾向は、全国的なことらしい。

 「何故だ?」と思った。印旛沼はどぶではないが、綺麗な水たまりではない。琵琶湖と違って、飲料水にはならない。でも「水清くして魚棲まず」である。魚が棲めない程に印旛沼の水質が劣化しているとは、思えないのだ。

 長谷川説は「ブラックバスが増えたからではないか?」だ。私は、「うーん、どうだろう?」と思った。全国の水たまりをブラックバスが席巻したのは、今に始まったことではないからだ。そして今世紀の初めまで、私自身がカイツブリを度々目撃している。当時住んでいた大阪府箕面市の、マルチの水たまりにてである。魚類ファウナは調べてないが、多分ブラックバスはいただろうと思うのだ。

 でも、「量が質に転換する」ことは有り得るな。ブラックバスの個体数が臨界点を越え、カイツブリへのダメージ(餌の小魚減少と雛が食われること)が急増する   可能性はあり得る。でもそれを「確認」することは、かなり難しい。

 箕面に住んでいた頃に私は、調査対象を鳥にまで広げた。バン、カイツブリ、ケリの育児行動を観察した。そして子別れ(ないしは親別れ)の方式がバンとカイツブリは逆であることに気づいた。バンは、成長した子が出生地から出て「分散」する。カイツブリは親が初めに居なくなり、残された子はその後に「分散」する。ケリは成長した子が親の行動を共にする。そして他のファミリーと一緒になって群れを作る。そしてその群れにて夏を越す。秋以降のことはよくわからない。

 興味ある現象と思ったが、カイツブリとケリについては論文にしなかった。観察時間が、バンに比べて(遥かに)少なかったからだ。足輪による個体識別をしていないという、弱点もあった。それと、「此の事は鳥類学者においては常識だろう」とも思った。ただ、本当にそうであるか否かは確認していない。

 


 

ベルこのブログの筆者・渡辺茂樹が顧問として在籍するアスワットのHPベル

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